東福岡教会

Instagram

特別集会

子どもクリスマス会

12月21日(土)

13:30~15:00

クリスマス礼拝

12月22日(日)

11:00~12:00

クリスマス・イブ礼拝

12月24日(火)

19:30~21:00

 

東福岡幼稚園

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2024.3.27 「偉大な大祭司・神の子イエスが共に生きておられる」 ヘブライ人への手紙4:14-16

1:  偉大な大祭司

 イエス様のことを、【もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエス】(4:14)と言います。【偉大な大祭司、神の子イエス】という言葉自体が、公に言い表している信仰、つまり信仰告白とされます。

イエス様を「偉大な大祭司」と言います。「偉大な大祭司」は「偉大」という意味を二重に持たせる言葉となります。「偉大な大祭司」という表現はこの箇所だけとなります。イエス様がこれまでの大祭司とは違い特別な大祭司であるということを強調するのです。

「偉大な大祭司」であるイエス様について、15節では【この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。】(4:15)と言います。これに対して、5章2節、3節の言葉では「一般的な大祭司は弱さを持ち、罪を持つ」と言います。それに対し、この4章15節ではイエス様は、罪を犯すことはなかったとし、そのうえで「あらゆる点で」私たちの弱さに同情できる方、私たちと同様の試練に遭われた方と教えます。

 

2:  共に苦しまれる方

イエス・キリストは偉大な大祭司として、人間の弱さに同情されたのです。5章2節において「思いやる」という言葉がありますが、この「思いやる」という言葉は「適度に感じる」という意味であり、隣人の罪に対して無関心ではないといった意味を持ちます。それに対して、「同情する」という言葉は、「共に苦しむ」「隣人の苦しみの中に入ってきて、自分の苦しみとして背負う」ということを意味します。

イエス様は私たちと同様の試練に遭われたのです。イエス様は私たちの苦しみを知り、共に苦しみ、痛みを共に背負ってくださる方となられたのです。【それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。】(ヘブライ2:17-18

 偉大な大祭司、神の子イエスは、私たちと同じ試練を受けられ、そのうえで、私たちと共に、その苦しみを背負われているのです。

 

3:  信仰を保つために

ここでは【神の子イエス】(4:14)と言いますが、この言葉は、「イエス」がイエス様の人性を表し、「神の子」が神性を表すとされます。この言葉は当時の最も短い信仰告白とされ、「イエスは神の子である」と告白しているのです。この信仰を【わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。】(14)と言います。

当時のヘブライ書の読者は、イエスをキリストと告白することに疲れていたとされます。ここでは、そのような人々に、もう一度「イエスこそが神であり、人であり、今の私たちの苦しみを、すべて一緒に受け留めてくださっている」と教え、「この信仰を保ちましょう」と教えているのです。

 そもそも信仰とは、私たちが自分自身の知恵や力によって得るものではありません。無力な私たちを、愛して、赦してくださっている神様の愛を受け取っていくことに信仰はあるのです。

【けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。】(ガラテヤ2:16

信仰を保つために、私たちは教会、信仰共同体に繋がっていたいと思います。教会は違う考えを持つ人間が、ただ「イエスを主」と告白するということだけを共通点として集められ、礼拝し、賛美するのです。私たちは、祈り、祈られる関係、共に聖書を学び、共に生きることによって、信仰を保っていきたいと思います。

 

4:  大胆に祈り、生きる

【憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。】(4:16)と言います。

「大胆に」という言葉は、岩波訳では「確信をもって」という言葉になります。また「近づく」というのは、祭司が礼拝のために進んでいくために用いられていた言葉とされます。大胆に、確信をもって、神様の御前に向かい、礼拝をするようにと勧められているのです。

現代聖書注解ではこの箇所から、大胆に「祈る」ことを勧めています。(p.127-131)そこでは、私たちが祈ることに慣れすぎてしまっており、「神様への畏れ」を忘れてしまっている。私たちは、自分には神様に祈る権利が当然のようにあり、神様はそれに応える義務があるように思ってしまっていると言うのです。

私たちは、大胆に確信をもって、神様に礼拝し、祈りたいと思います。それは神様への「畏れ」とイエス・キリストへの「感謝」が必要です。イエス・キリストは偉大な大祭司として私たちのために執り成してくださっているのです。

 

私たちは、大胆に、確信をもって、礼拝し、祈り、そこから、大胆に、確信をもって、世に出ていきたいと思います。キリストの福音を携えて、この世で大胆に生きる。救いの確信をもって、世に出ていく。それが私たちに与えられている生き方です。わたしたちは、ただキリストの恵みを受け、その恵みに寄り頼み歩んでいきたいと思います。(笠井元)