皆さん、イースターおめでとうございます。イエス・キリストは復活された。イースターは、このイエス・キリストの復活を覚える時です。神様は、この世にイエス様を人間として送られました。そしてイエス様はこの世界において、人間と共に喜び、悲しみ、笑い、涙を流し、生きられた。その人生は、特に貧しい者、罪人とされる人々と共に生きられたのです。しかし、イエス様の存在を受け入れられなかった人々の手によって、十字架に掛けられ、殺されていきました。イエス・キリストは確かに死なれたのです。すべての命を飲み込む死、生きているうちに体験することは決してなく、誰も、その感想を語ることはできない。ただこの世で誰もが畏れる死に飲み込まれていったのです。これがイエス・キリストの人生です。
しかし、神様は、このような畏れから、イエス・キリストを引き上げられました。キリストの死、これはすべて神様の御計画のうちにあったことであり、神が私たち人間に寄り添い、慈しみ、すべてをかけて共におられるための業でした。イエス・キリストは、人間の救いのため、神でありながら人となり、人間の代表として、死なれ、そのうえで、死を打ち破り、復活されたのです。イエス・キリストは、死に勝利されたのです。
今日は、そのイエス・キリストの復活を共に喜ぶ時です。私たちはイースターのこの時に、今一度、イエス・キリストの復活を覚え、畏れからの解放をいただくのです。神様は新しい命を創造された。今、苦しみの中にある者の隣におられるのです。今、共に、この新しく生きる恵みを頂いていきたいと思います。
1: 空虚の墓
今日の聖書の箇所は、イエス様の復活というよりも、十字架から復活の間の出来事とも言うことができます。「空虚の墓」。それは、十字架で死なれたイエス・キリストと、復活されたイエス・キリストを繋げる出来事となるのです。キリスト教においてキリストの復活こそが、信仰の始まりであり、信仰の中心となります。だからこそ、イエス様の時代から、現在まで、キリスト教に敵対する多くの者が、イエス様の亡骸を見つけ出し、この「空虚の墓」、イエス様の墓が空になっていたことを覆そうとしてきたのです。しかし、この墓が空であったということを覆されることはありませんでした。そのような意味で、この「空虚の墓」は、十字架で死んだイエス・キリストが、復活されたことを、確かに、繋ぐ架け橋となる出来事でもあるのです。
2: 絶望の道を歩んでいた女性たち
今日の箇所では、「婦人たち」となっていますが、10節では、この婦人たちを代表して「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア」という名前が挙げられ、その他にも婦人たちが一緒にいたとされます。この女性たちがイエス様の墓に向かいました。今日の箇所の前23章54節からはこのようにあります。【23:54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。23:55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、 23:56 家に帰って、香料と香油を準備した。23:56 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。】(ルカ23:54-56)女性たちは、安息日の前に、墓にイエス様の遺体が納められているのを見届け、その後、家に帰り、香料と香油の準備をし、安息日を休んだのです。そして、安息日が明け、女性たちはイエス様の墓に向かいました。この時のこの女性たちの気持ちはどのようなものであったのでしょうか。これまで慕い続け、ずっとつき従ってきた方、自分の人生の中心としておられた方が死んでしまったのです。それはただ、悲しいとか、苦しいという思いを超えて、もはや生きる意味を見失い、生きる希望を失った状態。これこそ「絶望」という中にあったのだと思うのです。「私たちはこれまで何をしていたのだろう」「これからどのように生きていけばいいのだろうか」「これからは何を中心に、誰に従って生きていけばいいのだろうか」と、不安と不信の中、生きる方向も定まらず、ただただ絶望の、真っ暗闇の中に生きていたのです。
そのような思いの中、この女性たちは十字架で死なれてしまった、イエス様の墓に向かっていたのです。この時、女性たちは、5節で【「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」】(24:5)と言われているように、確かに、死者としてのイエス様のもとへと向かっていたのです。すでに死んだ方、死なれてしまったイエス様を探していたのです。この墓へ行く道には、喜びや希望はありません。ただ、死なれたイエス様のもとに、香料と香油を持っていったのです。それこそイエス様は、罪人として、ローマにおける残虐な死刑方法である十字架という方法で殺されたのです。そのようなイエス様に、自分たちが最後にできることとして、せめて、きちんとした方法で、死者として葬ろうとしていたのです。この女性たちの歩んでいる道は、次の一歩、新しい一歩を踏み出すための道ではありませんでした。この道は、暗闇の道、絶望の道。そのような道をこの女性たちは歩いていたのです。
3: 死に支配されている
人間は、誰もが命を与えられ、この世に生まれ、生きて、そして、死んでいきます。どのような人間であっても、必ず死を迎えます。どのような人生を送るかは、それぞれ違い、まったく同じ人生の道を歩む人はいないでしょう。現在では、何々ガチャという言葉が流行っており、その中に「親ガチャ」という言葉があります。これは「子どもは親を選べない」という意味の言葉だと思います。いろいろと誉め言葉はあるかもしれませんが、とりあえず、一言で言えば、みんなに「素敵」と思われる親であれば「親ガチャに当たった」とし、これも最近の言葉になりますが、いわゆる「毒親」と言われるような親だった場合に、「親ガチャにはずれた」と使うそうです。この何々ガチャという言葉はたくさんあり、隣に住んでいる人とうまくいかないことを「隣人ガチャに外れた」と言い、国ガチャ、上司ガチャ、教師ガチャ、といった言葉もあるそうです。このような言葉で、今の自分の状況を表現することは自由ですが、「何々ガチャに外れた」と言うことの評価の基準はとても曖昧で、私としては、今の自分の状況を受け入れない方向に導く言葉に聞こえてきますので、あまり良い言葉とは思えません・・・。
私たち人間は、それぞれ違いを持ち、他者との比較で、良いとされることもあれば、弱いところもあります。ただその評価は、人間の勝手な評価でしかないのです。それこそ、私の知っている方で、自分の子どもが、重症心身障がい者として生まれ、生まれてから一言も言葉を話したことも、歩いたこともない。そのような子どもを持つ方が、「この子が私たちの人生の『光』です。この子が私たちに多くのことを教えてくれている。生きる希望を与えてくれた」と言われていたことをよく覚えています。私たちは、それぞれに違う人間です。そしてすべての人間が神様から造られた、大切な存在なのです。それがどのような状況、状態にあっても、私たちは、神様に愛されている、大切な一人なのです。
そして、私たちは、どれほど、生まれたその状況が違ったとしても、必ず誰もが死を迎えるのです。死んだあとには、お金を持っていくこともできませんし、名誉も権力も関係ありません。誰もが、必ず死を迎える。このことは、誰も変わることなく、平等です。この死ということに恐怖を覚えたり、悩んだり、苦しんだりすることは、動物の中での人間の一つの特徴ということができるとされています。人間は、死に悩み、恐怖します。そしてそれは、死を迎えるまでは起こらないことではなく、生きている時から始まっているのです。「死んだらどうしよう」「死ぬ前に何をしよう」と、それこそ人間は、生きている中でも「死に捕らえられ、死に支配される」者となることがあるのです。生きていながらも、死に支配されていく。それは、ただ、死に恐怖しているということだけではなく、生きる喜びを失っていること、生きていく勇気や、感謝を失っていること、生きていながらも希望を失い、愛を失っていること、そこにはすでに「死の支配」が始まっているとも言うことができるのです。この時の、女性たちは、まさにそのような状態、死に支配され、生きる希望を失っている状態であったのです。
死について、ある精神科医は、死が人間を苦しめるのには、4つの問題があるとしています。その一つは、自己充足感の欠乏とします。つまり、死を前にして、自分のこれまでの、過去、生涯を振り返り、結局自分の人生には何の意味があったのだろうか・・・という思いから、自分の人生は失敗だったのではないかと感じていくことです。自分が生きてきた意味を見いだせないまま死を迎える時、強い焦燥感や、恐怖感を感じることになることです。二つ目は、罪責感です。自分の生きてきた人生が、罪に満ちているという思いに囚われてしまうということです。自分が人を傷つけ、人を苦しめてしまったと感じている人が、死に直面した時、とても苦しい思いに陥ることがあると言われます。三つ目は、支配力の喪失(そうしつ)とされます。これは、自分という者が自分のものだと思っている時に起こるとされます。これまで自分の命は自分の物だと思っていたのが、死を前にして、命が自分の物でなかったことに気付かされ、不安を覚え、苦しむということです。四つ目は、創造活動の喪失(そうしつ)とされます。これは、これまで自分が何かを造り出してきた、自分にはそのような能力があるというところから、そのすべてが失われてしまうという問題です。
特に、作曲家や画家など、何かを造り出してきた者が、死を迎える時に、必死になって、何かを残そうとすることに繋がっているともされます。このような4つの問題が挙げられておりました。
これがすべて正しいというわけではありませんが、これが死に対しての一つの考え方です。これ以外にも、死と向き合うことに起こっていくことは様々な可能性があると思います。この4つの点から考えるならば、結局のところ、死と罪、死と生きる意味が繋がっていると見ることができるのだと思うのです。
聖書が教えるところの死、そして生きることは、それはただ肉体的に生きている、死んでいるということを教えているのではありません。死に支配されている。死んでいる状態。それは生きる希望を失った状態、もう少し変えて言いますと、神様との繋がりを忘れ、神様に愛され、大切にされていることを、受け入れることができていない状態、そしてそれは罪ある状態ともいうことができるのです。 ローマ書では、【6:23 罪が支払う報酬は死です。】(ローマ6:23)と教えます。まさに「死」と「罪」はつながった事柄なのです。それこそ、逆に、生きる希望もなく、生きている意味もわからず、ただただ暗闇の中を永遠に生きなければならないということは、もはや生き地獄となってしまいます。ただ不老不死を願い、永遠に生きる命だけを求めても、それは救いとはならないのです。
4: 復活
そのような中で、聖書が教える復活。それは新しい命を頂くことです。それは、死なないということではなく、イエス・キリストが十字架上で死なれたように、このキリストと共に死に、そして、共に、新しい命を得ること。死に勝利した方、イエス・キリストの復活にあずかり生きること。そこに、私たちは生きる意味を見出すのです。死の支配から解放されること。それは、別の言い方で言えば、神様と繋がって生きること。神様が、あなたを愛し、大切に思われているということ。神様があなたの命を尊いとされているということ。そして、十字架で死に、そして復活された、イエス・キリストがあなたと共に生きていてくださるということです。イエス・キリストは復活された。 イエス・キリストは、今も生きて、私たちがどれほどの苦しみや恐れの中にあろうとも、その隣に来てくださっている。主が共におられる。ここに本当の生きる意味、生きる希望を見出すことができるのではないでしょうか。
5: イエスの御言葉に出会う
今日の6節からこのように教えます。【「『まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」】(ルカ24:6-8)性たちが、墓の中に遺体を見つけることができず、途方にくれており、二人の輝く衣を着た者に出会い、恐れに捕らわれている中で、イエス様が語られた言葉を思い出していくのです。女性たちが恐怖と絶望から解放されたのは、イエス様の言葉を思い起こすところから始まりました。この時、女性たちが出会ったのは、復活されたイエス・キリストご自身ではありませんでした。女性たちが出会ったのは、これまで語られてきたイエス・キリストの御言葉です。この時この女性たちが出会ったのは、ただの言葉ではなかったのでしょう。それこそ、これまでイエス様と歩んできた道、一緒に生きてきた中で起こった出来事。イエス様のまなざし、また他者と共に生きる姿、罪人と共に食事をし、貧しい者の隣に生きた、その様々な出来事。それらすべてを含めた、イエス・キリストの表された神様の御業、愛の出来事、神様の愛による希望を思い起こしたのではないでしょうか。この時、女性たちが思い起こしたこと。そして新しく出会ったこと。それはイエス様が教えられてきた、信仰であり、希望であり、愛です。自分たちが生きている意味、神様に愛されている喜び、そして決して失われることのない「主イエス・キリストは必ず共にいてくださる」という希望を思い起こしていったのでしょう。どれほど失敗したと思い、罪に囚われてきた者であっても、その自分を愛して、「あなたの人生を、私が受け留める」と言ってくださっている、イエス・キリストに出会うことができるのです。死によって失うとされる、自分が自分であることの証明のようなものを求めている時、そのような者の存在意義、生きている価値、その者の命の尊さを、イエス・キリストが知り、その命を認めてくださるのです。すべてキリストに委ねること、キリストの支配に置かれているということを受け入れる時、死に捕らわれ、死に支配されているところのからの解放を得るのです。
イエス・キリストがこの世に来られ、人間として生きる中で教えられたのは、まさにこれらのことです。「あなたは愛されている」「あなたは自分一人で生きているのではない」「神様に愛されて生かされている」「わたしがあなたと共にいる」とイエス様は語り掛けてくださるのです。私たちは、このイエス・キリストの御言葉を受け取っていきましょう。そしてそこにイエス・キリストによる神様の愛、生きる希望、そして感謝と喜びを受け取っていきたいと思うのです。復活のイエス・キリストは、私たちに新しい命を与えて、人生を180度変える力を持っています。それは、私たちの目の前にある困難や苦難が変わるわけではないかもしれません。しかし、イエス・キリストが共にいてくださる中にあって、私たちは、そのような困難との中に生きる勇気をいただくのです。そこに力と元気を与えられるのです。 私たちは、この女性たちが出会っていったように、私たちも、復活の主イエス・キリストの御言葉に出会い、そして変えられて生きていきたいと思います。(笠井元)