「変わることのない神の御言葉」
2024.4.7 ルカによる福音書9:43b-45
今日は2024年度、最初の礼拝となります。新しい年度を迎えましたが、この年も皆さんの、毎日の生活が、神様の祝福のうちに守られた日々となりますように、お祈りしています。新しい年度を迎える時は、どちらかというと、1月の新しい年を迎える時よりも様々なことが変わっていくと感じます。この教会、附属の幼稚園、東福岡幼稚園では、年長さんは卒園し、4月から新しい園児が入園することになります。また今年は先生が新しく一人加わることになりました。私は、自分自身は、それほど何かが変わるわけではないのですが、このような周りの環境の変化によって、仕事の力点というか、できること、しなければならないこと、その優先順位、そしてその責任など、様々なことが変わるだろうと感じています。私たちは、ここからまた、新しい一歩を歩んでいきます。今年度も皆さんと共に礼拝を持ち、神様に感謝し、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。
1: 神の栄光を現す 受難の予告
さて、聖書に目を向けていきたいと思いますが、今日の箇所はイエス様が自らの死を予告する、二度目の場面となります。まず、このイエス様が自らの死を予告していった状況を見ていきたいと思います。今日の箇所の少し前、9章28節からの箇所では、イエス様が、ペトロ、そして、ヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られていくと、その姿が変えられ、ここでは「栄光に輝く姿」となられ、モーセと、エリヤと語り合うという出来事が起こったのです。そしてこのような言葉がありました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)ここではまさにイエス様が、神の子としての栄光が現わされたということができるでしょう。そして、その後37節からの箇所では、弟子たちでは癒すことができなかった、悪霊に取りつかれたとされる者を、イエス様が癒されていきます。43節に【人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。】(ルカ9:43)とあるように、人々は、神様の偉大さに心を打たれたのです。
今日の箇所は、そのような栄光の中におられる、イエス様が語られた言葉となります。「栄光」・・・それが、ただこの世的な価値観で「素晴らしいもの」という思いに留まることのないように、栄光と権威を持つイエス様が、その栄光を現す姿として、「死」を受けられる。ここに本当の神様の栄光が表されることを語られたのでした。イエス様は、ここでは「復活」について語られていないのですが、この場面において、イエス様が、この「死」による神様の栄光ということを強調して語られたとも読み取ることができるのです。
2: 受け入れられない弟子たち
この言葉を聞いた弟子たちは、【その言葉が分からなかった】(ルカ9:45)とあるように、このイエス様の受難の予告を理解することができなかったのです。このことは、弟子たちの理解力が足りなかったとか、イエス様から目を背けていたということではなく、この言葉は【彼らには理解できないように隠されていたのである。】(ルカ9:45)とあるように、この時は、まだその意味が隠されていたのです。それはイエス様が苦しみ、死なれるという出来事のことではなく、そのイエス様の死の意味、その苦しまれる出来事によって、何が起こり、何が為されていくのかということが隠されていたということです。このとき、弟子たちは、イエス様が神様の栄光に包まれた姿を見て、その方が悪霊に苦しむ者を助けられた姿を見たのです。弟子たちにとって、イエス様は、まさに神の子、その栄光に包まれている方、神の子としての権威を持って歩まれるはずのお方であり、その言葉は、力強く、人々を苦しみから解放する言葉であったのです。この方が【人々の手に引き渡される】(ルカ9:44)ということの意味は分からなくて当然と言ってもいいかもしれません。
イエス様が人々の手に引き渡され、死へと引き渡されていくこと。このことは弟子たちからすれば、ありえないこと、認められないこと、受け入れられないことでした。そのような意味から見るなら、この【彼らには理解できないように隠されていたのである。】(ルカ9:45)ということは、むしろこの弟子たちの思いが、理解することを止めてしまっていった。弟子たちの思い込み、自分勝手な思いが、神様の救いの御業を受け入れようとしないで、その意味は隠されてしまったとも言うことができるのです。このとき、45節の最後には【彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。】(9:45)ともあります。弟子たちは、このイエス様の受難を理解することができなかったというよりも、理解することが恐ろしく、受け入れられなかった。弟子たちは、怖くて、イエス様にその意味を尋ねることもできなかったのです。
「もし、本当にイエス様が人々の手に引き渡されるなら、そのイエス様の弟子たちである、自分たちもただではすまない。」「イエス様は、本当にそのような恐ろしいことをおっしゃっているのか。」「神様によって栄光に包まれた方が、なぜそのようなことになるのだろう。」「悪霊を追い払い、その言葉はどのような人々をも力づけてきたのに、なぜ自分自身が、誰かの手によって苦しみを受けるのだろう」と弟子たちは色々と考えたことでしょう。
3: 神の言葉を耳に入れる
弟子たちは、このイエス様の言葉に耳をふさいでしまいました。このような弟子たちの姿は、まさに私たち自身の姿ともいうことができるでしょう。私たちは、自分にとって都合の良い言葉にはもちろん耳を開いていきます。しかし、自分にとって都合の悪い言葉には耳をふさいでしまうものではないでしょうか。それは、神様だけではなく、誰から言われても、そのようなことが多いのではないかと思うのです。特に、的を得た、注意や指摘は聞きたくないものです。皆さんも、自分自身でも思っていた失敗や弱さに対して、「あなた、ここ間違っているよ」とか「あなたの問題はここですね」と言われるとき、その言葉を受け入れることはなかなかできないものではないでしょうか。それこそ、幼稚園の子どもは素直と言うべきか、容赦ありません。「先生、最近、年とったね」と「先生の話し方、ちょっと怖い・・・」と言われたこともあります。私としては、自分でも気にしているところでしたので、「グサッ」ときました。聖書の言葉でも、とてもシンプルに言えば「神様はあなたを愛しています」という言葉には耳を開いたとしても・・・続けて「だからあなたは神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉には、「またいつか・・・」と、耳をふさいでしまうこともあるのではないでしょうか。頂くものは頂くが、自分が何かを渡すことはしない。私たち人間が、何も考えずにいれば、そのような思いに引かれていくのが当然のことなのです。
そのような私たちに、イエス様は、「この言葉をよく耳に入れておきなさい。」】ルカ9:44)と言われるのです。ここでのこの言葉とは、【人の子は人々の手に引き渡されようとしている。】(ルカ9:44)とあるように、イエス・キリストの苦難、死についての言葉となります。イエス様は、この時は、まだ理解できない弟子たちに「この言葉を耳に入れておくように」と教えるのです。この時は、未だ、イエス様の頂いた栄光とは、この世の価値観で、輝かしいものであると思っていた弟子たちに、イエス様は、自分は、私たち人間のために、この世に来られ、その死を受け、痛み、苦しむことを導くことである。このことを「耳に入れ」、覚えておきなさいと言われているのです。
イエス・キリストは、ただ、神の右の座におられ、そこから「あなたに愛を注ぎます」と言われているのではなく、私たちと同じ、人間となり、私たちの苦しみを共に苦しみ、その痛みを共に痛まれたのです。そのために十字架という業がなされ、この出来事をもって、私たちと共に生きるという道が造られているのです。このイエス・キリストの十字架の姿によって示された神様の栄光とは、弱さを持ち、失敗だらけ、不完全な人間と共に生きて、そのような弱さを共に担い、共に生きる方となられたというところにあるのです。イエス・キリストは、どのような時も私たちと共にいてくださる方、私たちの苦しみを共に苦しみ、喜びを共に喜ぶ方となられたのです。私たちは、このイエス・キリストが共にいてくださるということを、耳に入れる、つまり、この言葉を聞き続けて、覚え続けていきたいと思うのです。
4: 変わることのない御言葉
私たちは、主の御言葉を耳に入れる・・・聞き続けていきたいと思うのです。この社会には様々な言葉が飛び交っています。現代はインターネット、SNSによって、世界中の言葉を瞬時にして受け取ることができます。多くの言葉が、私たちの周りを囲む中で、私たちは何を聞き、何を聞かないでいるのか、選択していかなければなりません。SNSなどでは、何でもいいからとにかく人の気を引くために、犯罪を犯してでも「面白いこと」「驚くこと」をしてみる。そのようなことが時々ニュースで流れています。このような社会の中で、私たちは、何よりも、この神様の御言葉を、聞き続けていきたいと思うのです。
聖書の言葉を一か所読みたいと思います。
【あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。】(Ⅰペトロ1:22-25)
主なる神様の御言葉は、何が変わろうとも、決して変わることはありません。永遠に変わることはなく、朽ち果てることはないのです。そしてこの主イエス・キリストを通して語られる、神様の御言葉が、私たちの命を新たにしてくださるのです。私たちは、今理解できないとしても、この神様の御言葉を耳に入れておきたいと思います。この神様の御言葉は、変わることなく、いずれ、私たちの心を変える言葉となってくださいます。それこそ、落ち込んだときに、引き上げてくださる言葉となるのです。絶望に陥った時に、生きる希望を与えてくれる言葉となるでしょう。神様の言葉は、闇に光を、悲しみに喜びを、怒りに冷静さを、絶望に希望を与えてくださる言葉となるのです。
イエス様は、自らの死、十字架の言葉を語られました。それは「私はあなたと共にいる」「あなたの重荷を共に担い、あなたの命に生きる意味を与える」と語られている御言葉なのです。わたしたちは、新しい年度を迎えました。この新しい一年、様々なことが起こるでしょう。状況はどんどんと変わっていきます。しかし、神様の御言葉は変わることはありません。私たちは、この神様の御言葉を耳に入れて、歩き続けていきたいと思います。(笠井元)