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2024.4.10 「大祭司イエス~苦しみを共に受ける方~」 ヘブライ人への手紙5:1-10

1:  人間の中から選ばれた大祭司

 1節に【大祭司はすべて人間の中から選ばれ】(5:1)る、とあるように、大祭司は人間の中から選ばれた者とされます。4節ではアロンの名前が出てきますが、大祭司とは、もともとは、イスラエルの民の中からアロンが選ばれ、そこからアロンの家系の者が担う役とされたのでした。出エジプト記ではアロンとその子らが祭司職を永遠に受け継がれるとあり、民数記ではアロンの孫ピネハスが永遠の祭司職としての契約を受けることが記されています。(出エジプト記40:12-15、民数記25:10-13)イエス様の時代ではアンナスとカイアファが大祭司であったとされます。(ルカ3:1-2

大祭司は人々に仕え、人々の罪の贖いのために任命され、神と人とを繋ぐ仲保者としての役割を持っているのです。イエス様が大祭司であるとすることは、イエス様が神様と人間を繋ぐ仲保者となられたことを教えます。イエス様は人間となり、人間の中から選ばれた者として、神と人とを繋ぐ者となられたのです。そして、4節で大祭司は神から召されている者だと教えます。すべての人間の中から、神様の召しによって選び出され、人々のために仕える者とされ、神と人とを繋ぐ者となられた。それが大祭司、イエス・キリストです。

 

2:  弱さを身にまとい、弱い者を思いやる 大祭司

大祭司は人間の中から選ばれた者であり、自分自身も弱さを身にまとっている者とされます。だからこそ、他者の弱さに寄り添うことができる牧会的な役割を担うことができる者であるとします。

 大祭司という話からは少しそれますが、ここでは牧会の姿勢を教えられると同時に、牧会を越えて、お互いを思いやる、他者を愛するということを教えられます。

 自分の弱さを悲しんだり、自分の強さを誇ったりするのではなく、その弱さによって他者を思いやる。これが大祭司です。

 パウロは、自分に「とげ」が与えられたときに、そのとげが去るように祈りました。そのうえで、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)という言葉を頂き「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)と言ったのです。自分の弱さを受け入れていくことは、それほど単純なことではありません。ただ、その弱さと向き合う中で、弱さを持つ自分が神様に愛されているという、神様の変わることのない恵みに出会う時、大きく変えられるのではないでしょうか。

 

3:  キリストの祈りと願い

7節のイエス様の激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、祈りと願いをささげたという姿は、二つの場面を思い起こさせます。一つはゲッセマネでの祈りです。(マルコ14:33-36)ただその場合、ゲッセマネの祈りが聞き入れられたかということが問題となります。イエス様の「この杯をわたしから取りのけてください」という祈りが聞き入れられたとは言えません。

もう一つの場面は十字架の上です。イエス様は十字架の上で7つの言葉を発せられたとされます。ルカによる福音書では「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言われました。

ルターは、イエス様の叫びの願いとして聞き入れられたのは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉が聞き入れられたとしました。この姿は確かに、神と人とを繋ぐ大祭司イエス・キリストを見ることができるるのです。

7節ではイエス様は【自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ】た、とあります。イエス様は、死から救う力のある方に祈り、願ったのです。私たちが死から救いを頂くためにイエス様は涙を流し、激し叫び声をあげて、今も祈っていて下さるのです。このイエス様の祈りを覚えたいと思います。この祈りは、死から救い出す力を持つ方に祈られているのです。

 

4:  共におられる方

『説教黙想アレテイア85号』(日本キリスト教団出版局)では、ヘブライ書では7章、9章、そして10章から、贖罪論を語っていくとします。【この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。】(ヘブライ7:27)、【9:12 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。】(ヘブライ9:12

ただこの5章では贖罪論を強調するのではなく、むしろイエス様の共感力と、従順、人間的な弱さを語っているとします。イエス様が、この世に人間として来られ、私たちの苦しみを共に苦しみ、それでも従順に神様に従ったことを伝え、神様の愛を示すのです。まず、キリストの共感、私たちと同じように苦しんでくださる方であることを強調して、救いに目を向けることを勧めたのです。

現代の日本人キリスト者に向けても同じことが言えるとされ、まず、イエス・キリストが共にいて下さり、私たちのことを知り、理解して下さること。共にいてくださる方としてのイエス様を強調することの方が受け入れられるだろうとします。

確かにイエス様は、神の子でありながら、多くの苦しみを受け、私たち人間と共に生きる道を選ばれました。まずそのイエス様が共におられるという、神様の愛に触れていきたいと思います。(笠井元)