キリストはカナで「最初のしるし」をお示しになられました。イエス様は「いのち」そのものであり、私たちはこのお方に繋がっていのちの喜びに生きるように招かれています。
1.場面設定:ガリラヤのカナでのことです。カナはイエス様の出身地ナザレの北約13キロの村です。「三日目に」というとイエス様の復活の日を思い起こさせます。私たちを襲う不条理なこと、理不尽なこと、悲しみや孤独の陰がどうであれ、それらは主イエス様のいのちの輝きに打ち勝つことはできません。私たちは復活節第三主日を迎えています。婚礼があったということですから、たぶん秋の季節でしょう。
2.婚礼があった:婚礼の時は人生のひとつの「ゴール」ということでしょうか。しかし、結婚式が一つのゴールであれば、あとは下る一方なのでしょうか。多分、若さや瑞々しさは少しずつ下降線なのでしょう。やがて「葡萄酒がなくなった!」と言うような羽目になるのでしょうか。「イエスの母」、マリアが招かれてそこに列席していました。
3. 母マリア:「マリア」という名は登場しませんが、「母」が繰り返されます。「マドンナ」への信仰の芽生えでしょうか?西欧のキリスト教には、「マリア」信仰が拡がっています。キリストが神であることが強調され、限りなく神の側に感じられると、マリア様にお願いしてイエス様に執り成してもらいたくなる。慈母観音ではないですが、人は傍らにいてくれる慈愛に満ちた執り成し手を必要としているのでしょうか。
4.母への主イエスの深い愛の想い:マリアは息子イエスに「ぶどう酒がなくなった」と伝えます。欠乏を知って神の前に立つ。これが信仰の精神です。イエスは答えます。「婦人よ、あなたは、わたしと、どんなかかわりがありますか。わたしの時はまだきていません」。やがて主イエスは母マリアを残して十字架で死ぬことになるので「お母さん、自然の愛情でもう私を見てはいけません。私には私の時があり、神が定めた時に行動せねばならないのです。」と、やがて到来する十字架での別れの準備をさせるこの言葉は、イエスの母に対する配慮です。しかし、マリアはこの突き放しに対して信頼をもって応えるのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(5節)。こうして主イエスは母のために配慮をし、そしてマリアはイエスの道備えをするのです。マリアを初め人間のできることは甕一杯に水を満たすことです。
5.宗教・信仰の劇的転換:この家には、ユダヤ教の伝統に従い、二ないし三メトレテス、約80リットルでしょうか、大きな石の水がめが六つ置いてあります。(6節)「清めに用いる」とあります。当時のユダヤ教が外から「汚れることを恐れる宗教」であったとすれば、主イエスの教えは、「溢れる喜びに生きる道」であると言ってよいでしょう。いい加減に酔っているのでその場を劣ったもので取り繕うか? 或いは、水をぶどう酒に変えていただき、日々全く新しいものを神から頂くか?の「あれか、これか」が問われています。(松見俊)