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2024.4.14 「信仰の劇的転換ーキリストのいのちに生きるー」(全文) ヨハネによる福音書2:1-11

 ヨハネによる福音書のこの個所からは2014511日に説教しており、当日は幼稚園の保護者の方々の出席が予想されましから、比較的優しくお話しました。私の伝道者人生の結晶のような処もありましたので、興味のおありの方は当教会のホームページの当日の原稿をお読みください。キリストは復活の輝きと十字架の栄光(11節ドクサ)から振り返って見て、どのようなお方であったのか、「最初のしるし」をお示しになられました。イエス様は「いのち」そのものであり、私たちはこのお方に繋がっていのちの喜びに生きるように招かれています。

 

1.場面設定

 物語の場面ですが、「三日目に」とあります。1章29節には「その翌日」とあり、35節にも「その翌日」とあり、43節にも「その翌日」とあり、ここで「三日目」というのですからかなり象徴的なものです。「三日目」というとイエス様の復活の日を思い起こさせます。私たちを襲う不条理なこと、理不尽なこと、悲しみや孤独の陰がどうであれ、主イエス様のいのちの輝きに打ち勝つことはできません。私たちは復活節第三主日を迎えています。婚礼があったということですから、たぶん秋の季節でしょう。場所はガリラヤのカナでのことです。カナはイエス様の出身地ナザレの北約13キロの村です。徒歩で3時間くらいでしょうか。

 

2.婚礼があった

 そこで婚礼があったということです。私はここから8キロ西の百道浜に住んでいますが、結構浜辺でウエディングドレスを着こんだ二人が写真撮影をしているのを目にします。もう周りの世界が見えていないというか、自己陶酔的な派手な衣装の二人やカメラマンの姿を見ていますと微笑ましい想いがします。自分たちにもあんな時があったのかなあと思い出します。婚礼の時は人生のひとつの「ゴール」ということでしょうか。結婚式の挙げ方というような雑誌がかなり売れているようですね。しかし、結婚式が一つのゴールであれば、あとは下る一方なのでしょうか。多分、若さや瑞々しさは少しづつ下降線なのでしょう。今月はピカピカの紺色のスーツを着た若い男女が歩いていました。三人の娘さんが私の前を歩いていましたがその中の一人がセンターベンツのしつけ糸を取っていないので、「お嬢さん、しつけ糸がついていますよ」というと「キャー!」と言って、「お爺さん今手で取っても大丈夫ですか?」と聞くので学校か会社に着いたらハサミで切った方が良いよ」と答えておきました。若い娘さんたち、息子さんたちを送り出す背後の親の寂しさも感じますが、若いというのはそれだけで輝いているものです。しかし、やがて「葡萄酒がなくなった!」と言うような羽目になるのでしょうか。

話が少し逸れましたが、「イエスの母」、マリアが招かれてそこに列席していました。神の祝福は結婚と結婚生活だけではなく、他者とともに、しかし、一人で生きることもまた祝福であることを聖書は語っていますので、結婚をいたずらに美化する必要はありません。しかし、その華やぎを揶揄する必要もないでしょう。ガリラヤのカナで婚礼があってイエスの母がそこにいたのです。

 

3. 母マリア

  今回メッセージを準備するために何度もこの個所を読み直しましたが。このように2章の最初にイエスの母マリアが登場することに驚きました。「マリア」という名は登場しませんが、「イエスの母がそこにいた。」「母がイエスに言った。」「イエスは母に言われた。」「しかし、母は召使たちに言った。」と繰り返されています。「マドンナ」への信仰です。先日、元西南高校の日本史の教員であった伊原幹治さんとお話をしました。彼はフランスから出発し、ピレネー山脈を越えて、スペインの西のはずれ、サンチエゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼路を歩いた経験から、「松見さん、どうして西欧州にはあれほどマリアさんの像があり、マリア信仰があるのでしょうか?教会の正面には大きなマリア像があり、脇に小さなキリスト磔刑像しかないような教会もあるんです。マリア信仰のない私はショックで、心というか信仰が揺さぶられました」というのです。九州バプテスト神学校の中年男性生徒も私のクラスで「欧州カソリック教会のマリア崇拝の広がりついて」質問されたことがありました。イエス・キリストが神であることが強調され、キリストが限りなく神の傍らに近づいて感じられると、マリア様にお願いしてイエス様に執り成してもらいたくなる。そして、次にマリア様が神の母として神の傍らにおられると感じられると今度は守護聖人にお願いするようになった。人は慈母観音ではないですが、傍らにいてくれる慈愛に満ちた執り成し手を必要としているのじゃないですか。ただプロテスタントの場合、イエス様が私たちの傍らにおられ、聖霊も母のようにわたしたちの内にいてくださるし、そして、私には父なる神も母性を持たれているように感じられるけど」というと伊原先生も「そうだよね!」ということでした。

 

4.母への主イエスの深い愛の想い

話を進めて主イエスのマリアへの深い愛の労わりについて光を当てましょう。マリアは主イエスに「ぶどう酒がなくなった」旨を伝えます。欠乏を知って神の前に立つ。これが信仰の精神です。イエスは答えます。「婦人よ、あなたは、わたしと、どんなかかわりがありますか。わたしの時はまだきていません」。聖書学者によると、「婦人よ」という呼びかけは当時の丁寧な言い方であって、決して冷たい言葉ではないそうですが、やはり、どこか厳しい響きです。しかし、私には主イエスの深い愛の言葉であるように思います。やがて主イエスは母マリアを残して十字架で死ぬことになるのです。イエスは、今後は、単に、マリアの子、肉親の親子関係としてだけでなく、父なる神のみ子として行動されなくてはならないのです。二人の間には断絶と別離の影が差し始めます。実は人間、その深さの度合いは別にしても、誰しもこの断絶と別離を経験するのではないでしょうか。主イエスは、ここでマリアを突き放して、一人の人間として呼び掛けるのです。「お母さん、自然の愛情でもう私を見てはいけません。私には私の時があり、神が定めた時に行動せねばならないのです。それはたとえ、母と言えども、決して越えてはならないのです」と。やがて到来する十字架での別れの準備をさせるこの言葉は、イエスの母に対する本当の愛ではないかと思います。30数歳で「やもめ」になるマリアです。

 

5.マリア:主イエスの働きの道備え、そして、人間に出来ること

しかし、マリアはこの突き放しに対して信頼をもって応えるのです。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」(5節)。こうして主イエスは母のために配慮をし、そしてマリアはイエスの道備えをするのです。信仰はまさに、待つことです。待つことによって自分の願い、相手にも自分にも本当に何が必要なのか知るのです。人間同士、親子関係、そして神と人間の間には、互いに、どんなに親しくとも、「待つ」という距離感が必要なのではないでしょうか。実はバプテスマのヨハネに続き、マリアも到来する主イエスの道備えをする人なのです。

 そして人間のできることは甕一杯に水を満たすことです。人は水を葡萄酒に変えることなどできません。そのような幻想は捨てねばなりません。いかにAIが発達してもできないでしょう。私たちのできることは、水瓶の縁までせっせと水をくみ入れることです。結婚生活も、子育ても、仕事も、勉強も、教会生活も、そのような地味な働きであるかも知れません。しかし、イエス様のお働きのためにコツコツ準備して待つことはできるのではないでしょうか。

 

6.宗教の劇的転換

いよいよ物語は頂点に達します。先回は礼拝の劇的転換という題で2章13節以下からメッセージをお伝えしました。今回は宗教、あるいは、信仰の劇的転換として物語の最終的意味について考えてみます。カナのこの家にはユダヤ教の伝統に従い、二ないし三メトレテス、約80リットルでしょうか、大きな石の水がめが六つ置いてありました。(6節)「清めに用いる」とありますので、飲料や食事の調理用ではないのでしょう。ユダヤ地方は乾燥している風土、地理的条件のために、更に、外から帰ると纏いついた「穢れを洗い落とすために」必ず水で身を清めるという宗教的理由のためのものでした。この当時のユダヤ教が外から「汚れることを恐れる宗教」であったとすれば、主イエスの教えは、「溢れる喜びに生きる道」であると言ってよいでしょう。

 主イエスは、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召使いたちに命じます。そして、「さあ、それをくんで、宴会の世話役のところに持って行きなさい」と言われます。すると途中で水がぶどう酒に変わっていたのです。人間の力、人間の喜びが尽きる時、神が力と喜びを創造して下さるのです!宗教の劇的転換です。人生すべてが下り坂ではむなしいではないですか。人間少しずつ年を取ると円熟するかというと、そうではなく、益々頑固になり、地金が出てくるのです。堪え性がなくなるわけですから大変です。結婚も最初は良いが、あとは下り坂というのでは寂しいです。「世話役は、ぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました。」

ここで、私たちは、人生の選択の岐路に立たされます。もういい加減に酔っているのでその場を悪いもので取り繕うか? 或いは、水をぶどう酒に変えていただき、日々全く新しいものを神から頂くか?の「あれか、これか」です。私の教え子で名古屋の瑞穂教会の牧師をしている人がいますが、彼がある時笑っていました。先生は娘さんと親子でいつもエネルギドリンク「リアル ゴールド」を飲んでいますね!まあエネルギーは無尽蔵ではないですからね。先週5日私は急性胆管炎で胆管に管を入れる緊急手術入院をしました。39度5分の熱も下がりましたので8日月曜に退院してきました。胆汁が肝臓に逆流したのでしょう、医者が飛び上がるほどの酷い黄疸でした。黄疸がなくなったら胆嚢摘出手術をすることになりましたが、人は自分の中に命を持っているのではありません。生きているのではなく、生かされているという当たり前のことを知らされました。人間は実は神様から生かされているのです。私のような者、皆さんも生かされているのです。信じがたいことは、自分の力で生きていると錯覚し、感謝もなく、貧しく生きていることではないでしょうか!「酔いがまわったころに劣ったものをだすものだ」が常識だと開き直って生きていてはなりません。誰しも「ぶどう酒がなくなりました」という現実に直面するのです。そのとき、穢れに怯える生き方をしていると、自己中心的であるゆえに自分自身が揺さぶられると、狼狽えてしまう私たちです。しかし、「待つこと」だけでなく、死者の中から引き上げられ、溢れる赦しと慈しみ、喜びの源であるイエス様が私たちの傍らにおられるとは何と素晴らしいことでしょうか。

 

「そして弟子たちはイエスを信じた」と言われています。私たちもいのちの主、溢れる喜びの源である主に信頼して生きましょう。(松見俊)