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2024.4.21 「小さい者を受け入れる~価値観の変換~」(全文) ルカによる福音書9:46-48

1:  誰が偉いのかという議論

今日の箇所は、弟子たちの中で、「自分たちの中で誰が偉いのか」という議論が起きたことから始まります。なぜこのような議論が起こったのかは、聖書には記されていないため、本当の理由は分かりませんが、この9章のこれまでの出来事から、いくつかその理由が考えられます。

まず、9章28節からの場面では、イエス様の姿が変わるという出来事が起こりました。これはイエス様が栄光の姿に変えられた場面とも言うことができるでしょう。このときに、山について行ったのが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人であったのです。またもう少し遡り、8章49節以下に記されている、死んだ会堂長の娘が起こされる場面でも、この三人ペトロ、ヨハネ、ヤコブがイエス様と共にいたのでした。このような三人の特別な経験から、この三人は、自分たちがイエス様から特に大事にされていて、「自分たちが偉いのだ」と思い上がっていたとも考えられます。または、逆に、このようなことから、他の弟子たちが、この三人に対して、嫉妬し、「自分たちこそイエス様の弟子である」と張り合い、競い合う中で、誰が偉いのかという議論が始まったのではないかと考えられます。

 また、別の理解としては、このイエス様の姿が変わるという場面の後、9章37節からの場面では、悪霊を追い出すことのできない弟子たちがいたのです。そこではイエス様が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(ルカ9:41)と言われました。このような中で、弟子たちが自分たちの弱さ、無力さを感じ、弟子たちの中で「誰が強く、誰が偉く、誰が力がない」といった、言い争いが起こったとも考えられます。

また、今日の箇所の前、9章43節からの場面では、イエス様が自らの死の予告をしたのですが、そのことを弟子たちは理解できず、それだけではなく、怖くてその言葉がどのような意味があるのか尋ねることすらできなかったとあるのです。そのような意味で、イエス様がいなくなってしまうかもしれないという恐れから、混乱と不安が生まれ、「自分たちは大丈夫だ」、「自分たちは強い」と思おうとする中で、結果、「では誰が一番なのか・・・」といった、強がりのようなところから、この「誰が偉いのか」という議論が生まれたとも考えられます。

 

これらはあくまでも推測ですし、この議論の発端、原因としてはいくつかの理由が考えられます。 ただ、原因が何であれ、確実にわかるのは、このあとイエス様が子どもをそばに立たせて言われた言葉、・・・「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)という言葉から、弟子たちは偉くなりたかったということ、そしてそのために、低く、小さい者となるのでも、また、そのような者たちを受け入れるといったことを考えていたのでもなかったということがわかるのです。これまで、イエス様は、罪ある者、弱い者、社会からつまはじきにされた者のところに行き、共に生きてこられたのです。この時の弟子たちは、これまでイエス様と共に歩んできながらも、イエス様のことを全く理解できていなかった。弟子たちはイエス様と共に歩いてきて、イエス様に派遣された者たちでもありました。しかし、その弟子たちは、小さな者となることも、小さな者を受け入れることも、全く理解せず、イエス様に従うこと、イエス様の伝えることを理解できていなかったということが分かるのです。

 

2:   偉くなろうとする社会

 私は、小さい頃に聖書を読んでいた中では、このような弟子たちの失敗、弟子たちの間違いの姿を聞いたときに、「自分だったらこんなことはしないのに」「イエス様の弟子たちはなんでこんなことばかりするのだろう」「そんなに偉くなりたいものなのかな」と思っていました。そして、このような聖書箇所からは「このような弟子のようにはならないように」と学ぶものだと考えていました。ただ、今思えば、そのように思っている自分自身こそ、驕り高ぶっていたのだと思うのです。弟子たちと自分を比べて、自分は弟子たちよりもイエス様をよく理解していると思い、イエス様にきちんと従っていることが出来ている、と思っていたのでしょう。まさに私自身、この時の弟子たちと同じ状態で、「自分の方が偉い」と思っていたとも言える状態にあったのです。 

この世は競争社会です。この教会は附属の幼稚園がありますが、まだ、幼稚園の園児には成績はありませんが、ただ、それでも、時に、保護者でも、先生でも、子どもと子どもを比べて見てしまうことがあります。これが、小学校になると、テストの点数、成績と数字で表されるようになり、どんどんと競争が加速していきます。もちろん、競い合うことで、能力を伸ばすこともできるでしょうし、自分にとって得意なこと、不得意なことがわかりやすくなり、自分がしたいこと、できること、これから生きていくうえで、必要なことなどが分かりやすくなっていくという意味では、競争することも、数字で表されることも、すべてが悪いことではないとも思うのです。ただ、そこから、その成績、「できる」「できない」ということだけを見て、その人を判断するようになり、できる人が勝ち組、できない人が負け組とされ、いつの間にか、できる人ができない人をいじめたり、差別をしたりとするようになっていくことがある。そのような意味での競争社会には大きな問題があるでしょう。そのような競争社会では、自分と誰かを比べて、自分の方が優れていると思い、そこから安心感を得たり、または高慢になっていく。または、自分と誰かを比べて、自分の方が、できていないと思う中で、劣等感を持つようになったり、そこから、自分の生きる価値を見失ってしまう。そのようなことに繋がってしまうのです。

 皆さんはいかがでしょうか。この競争社会において、いつも誰かと比較され、評価される。そのような中にあって、私たちは誰もが、他者より偉くなること、力を持つこと、権威、権力、財産といったものを求め、誰かよりも、強く、偉くなること、「勝ち組」となることを求めてしまっているのではないでしょうか。そして、そこに自分の存在価値を見出そうとしていないでしょうか。

 

ここでは、47節で、イエス様が弟子たちの心を見抜いたとあります。この言葉から見ると、弟子たちはイエス様がいないところで、この議論を行い、イエス様が来たらその議論をしないようにしていたと考えられるのです。弟子たちは、イエス様には、この「誰が偉いのか」という議論をしていることを知られたくはなかったのでしょう。私たちもだと思うのですが、心の中では「自分の方があなたより偉い」と思っていても、他者から、そのように言われることを喜ぶことはあっても、自分から「自分はあなたより強いんだ」「自分はあなたより偉いんだ」と、公に言いふらす人はあまりいないと思うのです。むしろ、そのようなことをすること自体が、恥ずかしく、間違っている者、弱い者だと思うこともあるでしょう。私たちの、実際に行っていることと、心の思いはすべてが同じではないのです。むしろ、私たちは自分の心を隠して生きているのではないでしょうか。ここではイエス様は、その心を見抜かれること、私たちが隠している心を見ておられることが記されているのです。皆さんは、このイエス様の目、私たちのその心の隅から隅まで見られる目に耐えることが出来るでしょうか。

 

3:  小さい者を受け入れる者となる 価値観の変換

 この「誰が一番偉いのか」という議論をしていた弟子たちの心を見られたイエス様は、一人の子どもの手を取り・・・「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカ9:48)と言われたのです。

現代では、子どもといえば、一人の人間として、その人格を大切にし、権利を持っているとして受けいれることが考えられています。しかし、当時のユダヤの社会において、子どもというのは、とても小さく、弱い存在と考えられていました。子どもに関わり時間を費やすことは、怠けてお昼からお酒を飲んでいるような状態と同じだとされていたのです。つまり子どもに関わることは無意味なこと、時間の無駄、その存在は一人の人間としては認められない者とされていたのです。イエス様は、「このような小さな者を受け入れる者となりなさい」と教えられたのです。これはただ、子どもを受け入れ、大切にすることだけを求めた言葉ではないのです。このイエス様の言葉は、「この子どものように、小さいとされている者、小さく弱いとされている者こそを大切にすること。それは、自分自身の弱さも含めてですが・・・そのような人間の弱さ、小ささ、不完全さ、失敗を受け入れる者となりなさい。そのような価値観を持つ者となりなさい」と教えているのです。

 これは、これまでの価値観を捨て、新しい価値観を持つことを教えているのです。先ほど言いましたが、この社会にあって、人間は、自分と他者を比べ、そこから、自分が優れている、優れていないというところを見てしまい、そこから、自分の存在価値を見出していく、そして逆に、そこから自分の存在価値を見失ってしまう。そのような価値観に生きているのです。 これは結局、自分の栄光を求めた価値観であり、一言で言えば、自己中心の価値観、自分さえよければよいという価値観なのです。イエス様は、そのような価値観を持つ人間に、新しい価値観を持つように教えるのです。それは【この子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。】(9:48)とあるように、・・・自分ではなく、小さい者を受け入れる価値観。それは、自分自身の弱さをも受け入れる価値観。そしてそれはイエス・キリストを受け入れる価値観。そして、ここでは「わたしをお遣わしになった方」とありますが、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神様を受け入れる価値観を持つことを教えます。つまり、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか、何かが出来るとかできないということではなく、・・・ただただ、その存在を喜び、愛するという価値観を教えているのです。

 

4:  イエス・キリストの選ばれた道

 イエス・キリストの選ばれた道。イエス・キリストは、神であり、神の子でありながらも、この世界に、人間として来られたのです。それは、「誰が偉いのか」という争いをする者たち、心には、自分中心の思いしか持たない人間の所に、来て下さったということです。

 神様からすれば、そのような自分のことばかり考えている人間は、とても弱く、自分勝手な者でしかないはずです。しかし、神様は、その心の隅から隅まで、見たうえで、人間を愛し、同じ人間となられたのです。イエス様は「誰が偉いのか」と争う中に来てくださった。ただ、遠くから「このようにしなさい」と教えられるのではなく、まず自分自身が、この競い合い、争いばかりを起こしている社会、そして私たち一人ひとりの隣に来てくださったのです。これが、イエス・キリストが、選ばれた道でした。このことを聖書ではこのように言います

【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8

イエス・キリストは、どこまでもへりくだり、どこまでも小さな者となられた。これが、神様の示された、私たちへの愛であり、神様は、この価値観を持って、私たちに、生きて欲しいと願っておられるのです。

 イエス様は、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(9:48)と言われました。これがイエス様の選ばれた生きる道です。イエス様は、争いの絶えない、この世界に、「愛する者たち。争うこと、競い合うことではなく、お互いの弱さを受け入れ、支え合う者、愛し合う者となって欲しい」と願い求められている。イエス・キリストこそが、最も小さい者となってくださった。私たちは、今持っている価値観から、このイエス・キリストによって示された価値観を受けて、新しい価値観を受け取って、従っていきたいと思うのです。

 最後にニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に書かれた詩を読んで終わりたいと思います。

 

成功するために、強さを与えてほしいと、神に求めたのに、

謙虚さと従うことを学ぶようにと、弱さを授かった。

偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、

より良いことができるようにと、病弱を与えられた。

幸せになるために、富を求めたのに、

賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人々の称賛を得ようとして、権力を求めたのに、

神を求め続けるようにと、弱さを与えられた。

人生を楽しめるようにと、あらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと、命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、

願いはすべて聞き届けられた。

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、

言葉に出さなかった祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人々のなかで、もっとも豊かに祝福された。

 

(笠井元)