1: 耳が鈍くなっている人
まず「このことについて」とありますが、今日の箇所の前には8節から、キリストは、多くの苦しみを受けられ、人間と神様を繋げる方、大祭司となられたことが語れます。しかし、この時の読者の耳が鈍くなっており、キリストによる救いを説明することが難しかったのです。読者はこれまで長時間の訓練が為されてきたとされますが、成長することはできておらず、「乳を必要とする者」と、むしろ後退してしまっているとするのです。耳が鈍くなっている者には「キリストの救い」をどれほど説明しても理解されることは難しいものです。
イエス様もこのように言われました。【聞く耳のある者は聞きなさい】(マルコ4:9)【イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』】(マタイ13:14-15)
耳を開くこと、イエス・キリストが私たちのために苦しみ、救いの業を成し遂げてくださったということを信じて聞くことから、本当の成長が始まるのです。
2: 悔い改める勧め
5、6節では【神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。】(6:5-6)とあります。
キリスト教では、「神様の無限の愛」「すべての人に与えられている救い」といったことが語られます。私たちは、この神様の愛、恵みに積極的に応答し続けることができているでしょうか。何をしても、何をしなくても、救いは与えられている・・・となってしまっていないでしょうか。パウロはこのように言いました。(Ⅰコリント6:12~20)私たちはキリストにおいて救いを得た者として、「自分の体で神の栄光を現す者」として生きていきたいと思います。
ここでは、警告・願いとして「戻ることができなくなる」という厳しい言葉を使いながらも、「あなたがたは、今、まだ二度と戻ることができないところまで堕落しているわけではないのだから、戻ってきましょう。悔い改め、立ち帰ってきてください」と望みをもって教えていると読み取ることができるのです。私たちは恵みをいただいているのです。この恵みに応答して生きていきたいと思います。それは、自分のために生きるということから、神様のために生きるという生き方へと変えられるということです。
3: 熱心に歩み続ける
9節では「愛する人たち」(9)と呼びかけます。この呼びかけはヘブライ人への手紙ではここだけとなります。この言葉からも、先ほどの警告が裁きを与えるのではなく、神様に立ち帰って欲しいとの願いを語っていることがわかるのです。
10節では、「神様の名のために示したあの愛」とあるように、これまでこの読者たちが神様、または「聖なる者たち」に仕える者であったことを示しているのです。私たちもですが、これまで為してきた、愛の働きを神様は一つとして忘れることはないのです。
ここでは「以前も」、そして、「今も」あなたがたは神様に従う者として、神様の愛を示す者、仕える者として働いていると言うのです。そして、11節では、【あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。】(ヘブライ6:11)と言います。これまで行ってきた、仕える奉仕を、同じだけの熱心さをもって、続けて欲しいと言うのです。
私たちも、現実の困難に疲弊し、神様を忘れてしまいそうな時があります。そのような時に、この言葉を思い起こし、もう一度熱心に仕える道を思い起こしたいと思います。
4: 信仰者として成熟する
最後に6:1~2にあるように「成熟する」ということについて考えていきたいと思います。
信仰者が成熟するとはどのようなことなのでしょうか。エフェソ4章ではこのように言います。
【4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。】(エフェソ4:13-16)
ここでは、愛に根差して生きること、そして、それぞれがそれぞれの働きを担い、お互いに結び合わされて、教会として成長、成熟することを教えます。私たちが成長、成熟するのは、一人で行うことではないということです。私たちは、教会として、成長させられていくということをよく覚えておきたいと思います。 それぞれがそれぞれの役割を担い、共に、キリストに向かって歩んでいくことが、私たちの成長へと繋がるのです。この教会という単位での成長、成熟を願って歩んでいきたいと思います。