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2024.4.28 「神が私たちに求めていること」(全文) 申命記10:12-22

1:  神様が求められていること

 今日の箇所で、聖書はこのように問いかけます。【イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。】(申命記10:12)今日は、共に、神様が私たちに求めておられることについて考えていきたいと思います。

 まず、今日の箇所の状況について、少し説明をしていきたいと思います。もともと、イスラエルの民はエジプトの地において、奴隷という状態におかれていたのです。出エジプト記を見ますと、イスラエルの民は、奴隷という状態の中、過重労働を与えられ、日々の命、その生活も保障されない中にありました。また、そのような過重労働を課す中でも、人数が増えていくイスラエルの民に対して、エジプトの王、ファラオは、「イスラエル人の子どもが生まれたときに、男性であれば、殺しなさい」という命令を出したのでした。そのような奴隷という状態の中にあったイスラエルを神様は顧みて下さり、そのイスラエルの叫びを聞き、エジプトから脱出させてくださったのです。奴隷からの解放、救いの出来事が起こされたのです。このエジプトからの脱出の出来事が出エジプト記に記されているのです。ただ、出エジプト記を読み続けていくと、エジプトを脱出したイスラエルの民、奴隷から解放されたはずの人々は、救い出してくださった神様の恵みを忘れ、神様から離れ「エジプトにいたほうがまだよかった」とまで言うようになっていくのです。そして、このイスラエルの民が神様を裏切った、大きな出来事として、神様を忘れ、金の子牛を作り、その金の子牛を神としていったという出来事がありました。モーセが神様に十戒・律法を頂くためにシナイ山に登り、そこからなかなか降りてこない中、不安になったイスラエルの民は、モーセの兄アロンに、金の子牛を作り、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出エジプト記32:4)としていったのです。 このことは今日の箇所の前、申命記9章にも記されています。

 【わたしが身を翻して山を下ると、山は火に包まれて燃えていた。わたしは両手に二枚の契約の板を持っていた。わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。わたしは両手に持っていた二枚の板を投げつけ、あなたたちの目の前で砕いた。】(申命記9:15-17

 このような頑なな民、イスラエルですが、この10章1節からにおいては、モーセによって一度砕かれた十戒をもう一度、神様が授けてくださることが記されているのです。

 

 そのうえで、今日の箇所では、【イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。】(申命記10:12)と問われるのです。この答えとしてここではこのように言われました。【ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。】(10:12-13)ここでは、主を畏れること、愛すること、仕えること、そして戒めと掟を守るように教えています。そのうえで、何よりも神様が求めていることは、「あなたが幸いを得ること」と教えるのです。 

 神様の求めておられること。それは、私たち人間が幸せに生きることです。ここでは、ただ神様の戒めを守ることでも、ただ、神様を畏れること、仕えることでもなく、また、神様を愛することだけでもなく、神様はそれらを通して、「あなたが幸せになること」、つまり、私たち人間の幸せを願ってくださっていることを教えます。神様は人間を縛り付けるために戒めを与えたのではなく、人間が人間として生きるために、神様の愛を受け、その神様との関係に生きて、幸せに生きるために、十戒、律法を与えてくださったのでした。これが神様の求めていることなのです。

 

このことはイエス様とファリサイ派の人々との間に置いても同じような論争が起こっていたのです。マタイの12章では、安息日についてのイエス様とファリサイ派の人々との論争が記されており、イエス様は【人の子は安息日の主なのである。】(マタイ12:8)と言われました。イエス様の時代、ファリサイ派の人々は、安息日を守ること、律法を守ることで救いを得ると考えていました。それもすべてが間違っているわけではないと思うのです。ただ、イエス様が教えられたのは、ただ、安息日、律法を守ることではなく、神様に愛されていることを受け入れ、頂いていくために、律法を守るのだと教えたのです。イエス様はマタイの12章では【安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか】(マタイ12:10)と問いかけられ、【あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。】(マタイ12:11-12)と教えられたのです。

神様が求められていること。それは、私たち人間が幸せにあること。つまり、神様の愛を頂き、「自分は愛されている」「生きる意味を持っている」「私は必要とされている」と知り、生きることを求めておられるのです。そして、そのために、「律法を守りましょう」と教えているのです。神様は、戒めを守ることで、神様の愛を得るのではなく、愛を得た者として、戒めを守ることを求めておられるのです。

 

2:  私たちが求めているもの

 では、このように、神様が私たちの幸せを求められている中で、私たちは何を求めているのでしょうか。私たちは、神様から幸せになるようにと求められている者として、生きようとしているでしょうか。神様の思いを受け、私たちも神様の幸せを求めて生きる、生きようと思っていることがあるでしょうか。イスラエルの民は、神様の幸せ、神様の思いを考えようとはせず、頑なに生き続けたのです。そして先ほども言いましたように、自分たちを救い出してくださったのは神様ではなく、自分たちが作り出した金の子牛だとまでしていったのです。神様はイスラエルの苦しみを顧みてくださり、心を痛め、そのような者たちが幸せになることを願い、奴隷という状態から解放してくださいました。イスラエルの民はこのことをよくわかっていたはずです。ただ、それでも神様の思いを考えることはなく、むしろ心を頑なにし、自分が欲しい物だけを求めていったのです。

 私たちは何を求めているのか。別の言い方をすれば、何を大切にしているのかと言うことができると思います。そしてそれは、何を神様とし、また何の奴隷となっていくのか、ということに繋がっていくのです。イスラエルの民はエジプトにおいて、武力を土台とした権力に支配されていたのです。権力の奴隷となっていたのです。そのようなイスラエルの民を救い出した神様は、十戒、十の戒めを与えられました。その前文と第一戒で、このように言われたのです。【わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。】(申命記5:6-7)神様は、イスラエルの民を、エジプト、奴隷の状態、権力に支配されていたところから、救い出して下さいました。そして、そのうえで、二度とそのようなものに支配されることのないように、【あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。】(申命記5:7)と言われ、何よりもまず神様を、自らの主とすることを教えられたのです。ただ、イスラエルの民は、この神様の言葉から離れてしまいました。神様なんて金の子牛でよい、自分たちで作ることができるとでも思ったのでしょうか・・・

私たち人間は、誰かに、何かに支配されているものなのです。「支配」というと、どこか納得ができないかもしれませんが、何かを一番に置いているということです。イスラエルの民は、エジプトにいるときは、強制的に、エジプトの権力を一番にしなければならない状況におかれていたのです。そして、そこから解放されたあとは、神様を一番とするのではなく、自分、または自分が作った金の子牛を一番にしようとしたのです。イスラエルの民は、権力からの支配から解放され、むしろ今度は自分で自分を支配し始めた。これは、ただ権力を人間が持つという価値観の中で、どこに立っているかが変わっただけのことでした。

私たちが生きるこの社会も、同じような構造になっているのです。支配する者がおり、支配される者がいる。財力か、権威か、武力か、社会的圧力といった強制力か、そのような者に支配されている時もあれば、または、自分がそのようなものを持って、人を支配している時もあるのです。これらは、自分が、どこに立っているかが違うだけで、その価値観は同じです。そしてその価値観に支配されている。それが、財産なのか権力なのかはわかりませんが、そのような物差しで人を見て、自分を見ているのです。つまり、そのような価値観に支配されているということです。皆さんは何を求めて生きているのでしょうか。何を神様とし、何の奴隷、何の支配下に生きているのでしょうか。何を一番にしていきているのでしょうか。考えてみてください。そして、そのままでよいか、問い直してみましょう。

 聖書が教えているのは、神様は私たち人間が幸せになることを心から求めておられるということです。そして、神様は、すべての人間を心から愛されているのです。このことを示されたのが、イエス・キリストです。神様は、イエス・キリストを、この世界に送り、私たちと同じ人間となり、共に生きて、死に、そしてよみがえられたという出来事を通して、その愛を示されたのです。神様は自らの命をかけて、私たちを愛し、その幸せを求めておられるのです。このような私たちは、いったい何を求めて生きていけばよいのでしょうか。

 

3:  神様が選ばれた者

 今日の箇所では、15節でこのように教えます。【主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。】(申命記10:15)  神様は、ここではイスラエル民の先祖に心引かれ、愛し、選んだとあるのです。このイスラエルの民が選ばれた理由。それは、このイスラエルの民が、特別、純粋であったからでも、神様に従っていたからでもありません。むしろ、イスラエルの民は頑なで、神様の思いを無視し、生きていったのです。では、なぜ神様がこの者たちを選んだのか。それはこの後を読んでいくとわかるのですが、イスラエルがここでは「寄留者」とありますが、「奴隷」であったからと言うことができるのです。イスラエルは、エジプトという大国に支配されていました。また別の時代はアッシリア、バビロニアといった大国に支配され続けた、小さく弱い民だったのです。22節ではもともと70人だったともありますが、それほどに小さく弱い者だった、イスラエルです。神様はそのような者に目を留められたのです。何を持っているのでもなく、ただ弱く、小さい者に神様は目を留められ、選び出されたのでした。これが神様の選びです。 

皆さんは、自分は神様に選ばれると思われるでしょうか。自分は強いと思われているでしょうか。それとも自分は弱いと思われているでしょうか。神様は人間の代表として、イエス・キリストを選び出されました。そして、そのイエス・キリストに繋がる者として、すべての人間を選び出したのです。この世に、完全な人間はいないでしょう。だれもがどこかしら弱さを持っています。神学者であるトゥルナイゼンは、「すべての人間は障がい者」であると言いました。「障がい」があることが弱いことと繋げることは、差別的な言葉となってしまい、正しいことではありませんが、・・・言いたいことは、私たち人間は、どこかしらに弱さを持ち、欠点を持っているということです。

 私たち人間は、弱い者なのです。そして、だからこそ、そのような人間を愛し、その人間が幸せに生きることを、神様は求められているのです。神様は、すべての人間を選び出してくださっているのです。私たちが、この自分の弱さを自覚し、受け入れる時、私たちは自分が、神様に選び出された者であることを知るのです。

パウロはこのように言いました。【すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。】(Ⅱコリント12:9-10)私たちが自分の弱さを受け入れるとき、本当の強さ、神様の恵み、神様の慈しみ、神様の愛を知ることになるのです。

 

4:  弱い者として、弱い者を愛していく

 16節からこのように言われます。 【心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。】(申命記10:16-19

 神様は、「心を頑なにせず、あなたがたも弱い者を愛しなさい」と教えているのです。「人を偏り見るのではなく、この世で『孤児』『寡婦』『寄留者』といった、弱い立場に立たされている者を愛しなさい」と教えられているのです。これが、神様の価値観に生きる道です。神様は、人間の作った価値観、財産や権力、武力によって、お互いを支配したり、支配されたりといった価値観ではなく、お互いを愛し、慈しみ、お互いの存在を喜ぶ価値観を教えてくださっているのです。

私たちは今、自分が誰を愛し、何を大切にして生きているのか、もう一度考えていきたいと思うのです。私たちは何を一番大切にして生きているでしょうか、「自分」でしょうか。「自分の持つ財産や権力」でしょうか。「友人」や「家族」でしょうか。神様は、私たちに、そこから一歩進み出て、「あなたにとって、何もすることのできないような人、あなたにとって、むしろ迷惑になるような人、あなたが、差別し、必要ではないと思うような人・・・そのような人を愛しなさい」と、教えられているのです。

ヨハネによる福音書ではこのように言われています。

ヨハネによる福音書15:16-17【あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」】(ヨハネ15:16-17

神様は私たち弱さを持つ者を、お互いを愛する者なるようにとして選び出してくださったのです。神様が私たちに求めるもの。それは、神様に愛されている、お互いを愛しなさいということ。そして、私たち、すべての人間が幸せを得ることを求められているのです。これが神様の命をかけた「願い」です。この神様の願いが為されていくために、神様は、イスラエルに十戒を与え、律法を与えました。そして、今、私たちには、イエス・キリストが与えられ、その御言葉である聖書が与えられているのです。

 

私たちは、弱い者です。「さあ頑張って、お互いを大切に生きていこう」と思っても、それはそれほど、簡単なことではありません。弱い私たちにできることはわずかです。だからこそ、この世に争いは絶えず、すべての人間が幸せになることができていないのです。私たちは、心に、神様の愛を頂かなければ、お互いを愛することはできません。だからこそ、私たちは、私たちの中に神様の愛、イエス・キリストを頂くのです。私たちの幸せは、誰かを傷つけてでも自分が何かを得ることではなく、自分が傷ついてでも、隣にいる人を愛した、イエス・キリストを頂くことから始まります。そこに本当の幸せ、愛を知ることになるでしょう。私たちは、今、その一歩を歩みだしましょう。(笠井元)