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2024.5.5 「キリストは命を救うために来られた」(全文) ルカによる福音書9:49-56

1:   自分が偉いと考えている弟子たち

 今日の箇所では、弟子のヨハネが、イエス・キリストの名前を使って悪霊を追い出している者を見て、その働きを止めさせたこと、またそのヨハネと、今度は、その兄弟ヤコブも一緒に、イエス様一行を歓迎しなかったサマリア人の村に「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったことが記されています。この箇所の前46節からの箇所では、弟子たちの間で、誰が一番偉いのかという議論が起こり、それに対して、イエス様は【あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。】(ルカ9:48)と言われたのです。「最も小さい者こそ、最も偉い」。イエス様はこのように教えられたのです。 

 しかし、今日の箇所では、このイエス様の言葉を理解できていないヨハネとヤコブの姿があるのです。この時はこの二人の名前が挙げられていますが、実際のところは、他の弟子たちもあまり変わりはなかったと思います。弟子たちは、お互いを見比べ、自分たちの中で、誰が偉いのかを話し合って、「自分にはあれがある」「自分はこんなことができる」「自分の方が先に弟子になった」などと言い合っていたのでしょう。今日の箇所を、その続きとして見ると、「私たちと一緒にイエス様に従っていないで、イエス様の名前を使い、悪霊を追い出している者たち」と「自分たち」を見比べてみたと読み取ることができるのです。弟子たちは、弟子たちの中で、「誰が偉いのか」という議論から、今度は「自分たちイエス様につき従っている者」と、「そうではない者」とで「自分たちの方が偉い」と言い出したのです。少なくとも、自分たちと一緒に、イエス様に従っているわけでもない者が、イエス様の名前を使い働くことは、してはいけないことだと考えたのです。

 確かに、実際に考えると、イエス様に召され、選び出され、派遣された12人です。これまで、イエス様と共に生きて、共に食事をし、共に働き、イエス様の姿を見てきたのです。そのような意味では、頂いている恵み、感謝の思いは人一倍大きなものとなっていてもおかしくはないと思います。しかし、この時の弟子たちが、他の人よりも持っていたのは「感謝」ではありません。むしろ「自分こそが偉いんだ」という思いです。弟子たちは、イエス様の近くで何を見てきていたのでしょうか。貧しい人に寄り添い、罪人とされ、差別される人々の隣に生き、苦しみの中にある人に癒しを与えてくださっていたイエス様。そのイエス様の姿を一番近くで見ていた弟子たちが持っていた思い。それは「感謝」ではなく「権威欲」でした。そして、これは弟子たちが悪いということではなく、これが私たち人間の姿なのです。

 

 私たちにもこのようなところがあるのです。自分と他者を見比べて、自分の方が偉いと思うこともあれば、自分の方が偉くないと思うこともあるでしょう。そしてその存在を喜んだり、悲しんだりしている。そのような価値観で、自分を見て、また他者を見てしまう。それが私たち人間の目線です。この時、弟子たちは、自分たちがイエス様に選ばれた者であり、自分たちが正しいと思ってしまっていたのです。

 

2:  違いを認める

 私たちは、自分たちと他者を、何かが出来る、出来ない、何かを持っている、持っていないということで評価してしまいます。しかし、神様は、私たち人間をそのような目では見られないのです。私たちが何が出来るか、何を持っているかということによって、神様は、愛されたり、愛されなかったりはしないのです。私たちは、自分の何かによって、神様に愛されているのではない。ただただ、神様の一方的な恵みの内に、私たちは命を与えられ、喜ばれ、生かされているのです。そして、その恵みのうちに、キリストを知り、その恵みによって、キリストによる愛を頂いているのです。 神様の前にあって、すべての者が、大切な存在です。神様が造られたこの世界のすべてを神様は愛されておられるのです。

ここでは、「私たちと一緒にあなたに従わない者」とありますが、「一緒でなければ・・・」という思いは、とても危険な思いであるとも言えます。「一緒」、それは「同じ」でなければならない、ということになり、最終的には、「一つ」、「同じ」でなければならない、それ以外は認めない。自分たちと違うことは認めない。このような考えは、結果、自分だけが正しいという凝り固まった考えとなり、違うものを排除していく、そのような考えに陥ってしまうことになるのです。私たちは、それぞれに違いを持つ者です。キリスト教といっても、まずカトリックがあり、プロテスタントがあります。またプロテスタントの中でも、私たちはバプテスト教会ですが、そのほかにも様々な教派があります。そしてそのどれがすべて正しいということはないでしょう。それぞれに、考えが違うところがあり、その良い部分もあれば、そうでない部分もあるのです。それが人間がこの世で生きる限界なのでしょう。神様は、それぞれの違いを受け止め、受け入れてくださる。そしてだからこそ、私たちは、お互いに神様に愛されている者として、お互いに支え合い、祈り合い、時に話し合い、知恵と力を合わせて、神様に仕えていくのです。

 

3:  サマリアを通ってエルサレムへ

 51節から、イエス様は、エルサレムに向かう決意を固められ、歩みだしました。イエス様がエルサレムへの道を感じられ、そして、決意を固められたことを、別の聖書では少し違う表現で語ります。口語訳聖書では「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」た、とあります。そして、新改訳聖書では「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」た、とあるのです。さらに文語訳の聖書では「御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」た、と訳されています。ここで、「決意を固められた」と訳されている言葉は、もともとの言葉では、「顔をしっかりと置く」とか「顔を堅く据える」という言葉であったのです。イエス様はエルサレムへの道、その苦難の道を感じられていく中で、決意を固められたのみだけではなく、そのエルサレムへと顔をしっかりと向けられていった。そして、そのエルサレムへ、その苦難の場所へと目を向けられていったのでした。そして、このイエス様の、苦しみの道の最初、その一番に目を向けられたのがサマリアであったのです。

当時は、ユダヤ人とサマリア人というのはとても仲が悪く、お互いに、顔を合わせることを嫌っていたのです。このような関係になってしまったのは、紀元前8世紀頃にあった、アッシリア帝国による、北イスラエル王国の捕囚にさかのぼる出来事によるのです。この北イスラエルの滅亡によって、サマリアの地域には、多くの外国の人々が移住してきて、同時に、様々な外国の文化や宗教もこの地に入ってきたのです。そのため、このサマリア人というのは、エルサレムに住むユダヤ人から見たら、他の神々を受け入れ、自らを汚している、そのような人々に見えていたのです。神様から選ばれた民という意識が強くあったユダヤ人は、サマリア人を、軽蔑し、さげすんでいたのでした。

イエス様は、そのようなことをすべて、ご存知で、なお、エルサレムに向かう者として、このサマリアにまず目を向けられたのであります。イエス様は、確かに、エルサレムへと向かう決意をなされていったのです。それは自らの苦難を見据えて歩まれる、苦しみの道であったのです。このイエス様の、苦しみの道の最初、その一番に目を向けられたのがサマリアであったのです。それは、まさに軽蔑されて、清くないとされている人々に向けられたイエス・キリストによる福音の道です。イエス・キリストの十字架の歩みは、苦しみの中にあって、困り果て、疲れ果てている人のために、その痛みを共に担うためにこそ、この歩みがあったのです。このイエス・キリストの十字架は、私たちの弱さを十字架の上でイエス・キリストが担い、そして、今も担い続けてくださっているということを、表しているのです。イエス・キリストは、むしろ、自らが一番弱い者となられていく中で、その痛みを共に担う者となられたのであり、私たちを支えてくださる者となってくださったのです。

 しかしまた、このイエス様の歩みをサマリアの人々は歓迎しませんでした。それこそ、主の愛を拒んだのです。そしてこれも、すべての人間の姿と言えるでしょう。神様の愛、イエス・キリストによる福音は、すべてがすべて、喜んで受け入れられるわけではないのです。むしろ、私たち人間にとっては、必要のないもの、うっとうしいものとなっていくのです。神が共におられる。この福音の言葉を、人間は拒否してしまう。むしろ自分のことは自分で決める。自分の隣にいる必要などない。自分の命は自分のもの。自分に関わらないで欲しいと願ってしまうのです。それが人間の弱さであり、限界なのです。

  このサマリアの人々の態度に対して、弟子のヨハネとヤコブは、【「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」】(ルカ9:54)と言ったのです。この言葉は、「自分たちは違う」、「自分たちはイエス様をきちんと受け入れている」、「自分は正しい」、「イエス様を受け入れない者は裁かれる」「裁かれて良い」と考えていた中での言葉なのです。私たちは、同じように、他者を、そして時に自分を裁いてしまっていないでしょうか。神様はそのような私たちに、イエス・キリストを通して、全ての者を愛することを表されたのです。神様の前にあって、大切でない存在は一つもないのです。私たちは、その神様の前にあって、愛され、赦されて生かされているのです。

 

4:  命を救うために来た

 55節では、このような言葉を発した二人の弟子をイエス様が戒められたとあります。ただ、New King James Version という英語の聖書では、この言葉の後に、このような言葉が追加されているのです。9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。」「そして彼は言った。『あなたがたは自分がどんな霊に属しているのか知らないのです。というのは、人の子は、人の命を滅ぼすために来たのではなく、救うために来たのですから』」New King James Versionでは、このような言葉が追加されているのです。

 

 イエス・キリストは、私たちのことを滅ぼすためではなく、救うために来られた。私たち人間が、お互いを裁き合う中、そのような人間、弱く、間違った道を歩んでしまう人間。そのような人間を救うため、それは、そのような私たちを愛している神様の愛を現わすために、この世に来られたのです。私たちは、ただ、神の意志、神の愛によって、救いを得ているのです。弟子たちも、そしてサマリアの人々も、神様の前にあっては何も変わらない一人の人間なのです。そして、神様は、その弱さを持つ、一人一人と、共にいてくださるためにこそ、イエス・キリストを、この世に送られたのです。「人の命を滅ぼすためではなく、人の命を救うために来た」というイエス・キリストの言葉。この言葉は、イエス・キリストが、私たちのことを愛することを表した言葉なのです。私たちは、お互いに、お互いの弱さを指摘し合うことを、求められているのではないのです。イエス様は、その弱さを担われる方であります。私たちも、そのイエス・キリストの恵みに与る者として、お互いに、お互いの弱さを分かち合い、支え合い、お互いの重荷を担い合い、支えあっていきたいと思います。(笠井元)