1: 自分が偉いと考えている弟子たち
ヨハネは「イエス様に従っていない者たち」と「従っている自分たち」を見比べたのです。弟子たちの中で「誰が偉いのか」と議論をしていたところから、今度は「イエス様に従っている者」と「そうではない者」とで「自分たちの方が偉い」と言い出したのです。私たちも自分と他者を見比べて、自分の方が偉いと思うこともあれば、自分の方が偉くないと思うこともあるでしょう。それが私たち人間の目線です。
2: 違いを認める
私たちはただ神様の一方的な恵みの内に、命を与えられ、喜ばれ、生かされているのです。神様の前にあって、すべての者が大切な存在なのです。
ここでは、「私たちと一緒にあなたに従わない者」とありますが、「一緒でなければ・・・」という思いは、「同じ」でなければならない、それ以外は認めない、自分たちと違うことは認めないとなり、違うものを排除していくことになるのです。神様は、それぞれの違いを受け入れてくださるのです。
3: サマリアを通ってエルサレムへ
イエス様はエルサレムに向かう決意を固められ歩き出しました。イエス様は苦難の場所へと目を向けられていったのです。このイエス様の、苦しみの道の一番に目を向けられたのがサマリアでした。当時、神様から選ばれた民という意識が強くあったユダヤ人は、サマリア人を軽蔑していたのです。イエス・キリストの十字架の歩みは、蔑まれ、苦しみの中にある人のために、その痛みを共に担うためにこそあったのです。
しかし、このイエス様の歩みをサマリアの人々は歓迎しませんでした。神の愛を拒んだのです。これが人間の姿です。神が共におられる。この福音の言葉を人間は拒否し、むしろ自分の隣に神がいる必要などない、自分の命は自分のもの、自分に関わらないで欲しいと願ってしまうのです。
4: 命を救うために来た
55節では、イエス様が二人の弟子を戒められたとあります。New King James Version という英語の聖書では、この言葉の後に「あなたがたは自分がどんな霊に属しているのか知らないのです。というのは、人の子は、人の命を滅ぼすために来たのではなく、救うために来たのですから」と追加されています。イエス・キリストは、私たちのことを滅ぼすためではなく、救うために来られたのです。私たち人間が、お互いを裁き合う中、そのような私たちを愛するためにイエス・キリストはこの世に来られたのです。私たちはこの神の愛によって救いを得ているのです。(笠井元)