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2024.5.12 「初めに言があった」(全文) ヨハネによる福音書1:1-5

ヨハネによる福音書も2章の22節まで進みました。実は、意識的にヨハネ1:1~18節を抜かしてヨハネ伝を読み始めました。ヨハネ1:1~18はヨハネによる福音書の「序論」(プロローグ)として加えられているものです。クラシック音楽も「序曲」が素敵です。最初にこの序論・序曲の構造と意味について触れておきます。皆さんはご自分の人生の物語を始める時、どのような「序論」=「まえがき」を加えるでしょうか?  

イエス様は、この世界に33年間あるいは35年間生きられ、神の恵みの支配を宣教され、十字架で殺され、死者の中から引き上げられました。そして、信じる者の中に今も生きておられるのです。イエス様とはどのようなお方であったのでしょうか?一番古いといわれているマルコによる福音書は、イエスのバプテスマにまで遡ってイエスの歴史物語を描いています。マタイとルカの福音書はクリスマス、つまり、主イエスのお誕生にまで遡ってイエス様の人生を語ります。そして、一番新しいと考えられているヨハネによる福音書は、この1:1~18において、天地万物が創造される以前にまで遡り、壮大なドラマを提供しています。イエス・キリストは人としてこの世に生れ、彼を信じる人々には神の子となる資格を与えるお方、永遠の「言」が肉体を取って来られたお方であると言うのです。私の同じ年の友人が名古屋の瑞穂教会の牧師時代に電話をかけてきました。大学卒業後5,6年経っていたでしょうか。「松見君、ヨハネ1:1~5は凄いことを言っているね!」ということでした。「そうだね」とだけ答えておきましたが、二人の共通の友人がいるのですが、「最後のゼミの晩、私がイエス・キリストのことを証したんですが、彼最近カトリックの洗礼を受けたらしいよ!」と付け加えました。とにかく、このヨハネ伝の「序文」・「序曲」は人間の人生を変えるだけの力を持っているのです。

1.「初めに言があった」(En archē ēn ho Logos

「初めに」とは、二つの意味があるでしょう。時間的に、すべて存在するものに先立ってという意味と、もう一つは、この世界に存在するものの根本というのでしょうか、根源というのでしょうか、「言」が存在していたということです。「言」と翻訳された言葉は「ロゴス」というギリシヤ語です、「ロゴス」が存在していたというのです。現在はSNSなどで「情報」が実に沢山流れています。いわゆる「ガセ」ネタもありますが、私たちに必要なあるいは必要不可欠な「情報」とは何かを見抜く力も重要です。情報の中心はやはり「言葉」でしょう。江戸時代の翻訳では「初めに賢いものがござった」と翻訳しています。「賢きもの」とは面白い翻訳ですね。「ロゴス」という言葉が用いられていますが、「言の葉」とは区別して、「葉っぱ」を取って、「言」という言葉が用いられています。ユダヤ人の哲学者マルティン・ブーバーは有名な「我と汝・対話」という本において「根源語」について語っています。「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。人間の態度は人間が語る根源語の二重性に基づいて、二つとなる。」と言います。「根源語とは、単独語ではなく、対応語である。根源語の一つは「我と汝」(私とあなた)の対応語である。他の根源語は「われとそれ」の対応語である。… 根源語は、それをはなれて外にある何かを言い表すのではなく、根源語が語られることによって、存在の存立が引き起こされる。(中略)…それはそれ自体では存在しない。」このことを哲学用語ではなく、椎名鱗三の短編小説「美しい女」の一節から考えてみましょう。確か暑い夏の二階の一部屋での男女の会話です。「するとひろ子は喘ぐような声で言うた。『うちを好きと言うて、で、私はいつものように答えた『好きや』。すると、彼女はたたみかけるように言うた。『ほんまに好きやと言うて』。私はだまった。彼女は泣くような声で言うた。『やっぱりあかんの?やっぱりほんまはあかんの?』私は彼女の口真似をしながら答えた。『そう や』。」ただこれだけの会話ですが、これを読んだ時、私は「ぞっく」としました。このやりとりは、人間の言葉の限界といいますか、人間自身の限界というものを教えていると思います。「ほんまに好きや」と答えても「じゃあ、ほんまに、ほんまに好きやと言うて」と聞き返されることでしょう。「ほんまに、ほんまに好きや」と答えても、「ほんまに、ほんまに、ほんまに好きと言うて」と聞き返されることでしょう。人間が互いに生きられるのは、人間が喋る言葉をどこか超えた「言」(ロゴス)によらなくてはならないのではないでしょうか。この事実、存在するものの存立を惹き起こす根源語を信じなければ人間は「不安の奈落」に落ち込んでしまうことでしょう。この「ロゴス」の事実を信じなくては、うつろい易い相対的な人間の言葉をどこか絶対化してしまうか、開き直って、結局、虚無的に生きるかのどちらかです。そして、この言=ロゴスに根ざして生きなければ、「わたしとあなた」の関係は「わたしとそれ」、つまり、互いに情欲の「手段」の関係、「わたしとそれ」の関係になってしまいます。ブーバーも椎名鱗三もいわゆる人間の「人格」関係について語っているわけですが、人間と人間の人格関係を根底から支えているのが「神の言」=ロゴスなのです。この神の言に支えられて人間の言葉は「些細なもの」として、しかし、自由に解放されて、意味を持つのです。「好きや」という言葉で満足し、「ほんまに好きやと言うて」と言って、自分やその相手を問い詰めたり、追い込むことはしないのです。「初めに言があった」のです。ここでは、はじめに言が「あった」と未完了過去形で告白されています。未完了過去はある動作、行為が過去において進行しつつある状態を意味しています。ロゴスは今も働いていることを否定はせずに、人間やいかなる偶像的神々の介入などを決して許さない確かな「事実」を表現しているのでしょう。

 

2.ダイナミックな神の語り

ギリシヤ社会の「ロゴス」は世界を秩序づけるものとしてどこか「理」(ことわり)というか、動きのない、静的な感じです。それに対して、イスラエルの世界では神の言は、語りかけ(ダーバール)という意味で、ダイナミックで、創造的です。対話を惹き起こします。創世記1:1~3にはこのように書かれています。「初めに、神は天と地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」。こうして、光があった。」イザヤ55:8~11を読んでみましょう。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたし道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、目を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与える使命を果たす。」「初めに、言があった。」まず、神が語られ、存在するものの根底にあって、いのちを支えているのです。

 

3.「言は神と共にあった。言は神であった。」(ho Logos ēn pros ton theon kai Theos ēn ho Logos.

やがてイエス・キリストとなって誕生する「ロゴス=言」は神と共に天地万物の創造を手伝うお方として、神ご自身の中での「父と子」、「我と汝」の関係の愛の出来事として、神と共にあったのです。ロゴスは「神であった」とありますがここでは「冠詞」がありませんので、キリストを神であると告白することへの多少の躊躇を感じさせます。1:18には「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(monogenēs theos, ho ōn)と語られ、ここでも冠詞はありません。しかし、あの疑い深いトマスが復活の主イエスに出会い、「わたしの主、わたしの神よ」(ho theos mou)と告白していますので(20:28)、ヨハネ伝では、イエスは「神の子」であり、「神である」という信仰に至り、後の三位一体の神理解が明確に芽生えていると言えるでしょう。「言は神と共にあった。言は神であった。」

 

4「成ったもので言によらないものは何一つなかった。」すべてのものはキリストによって顕わになった愛によって創造されている。

この言に命があり、言は闇を照らし、輝く光であったことについては20201224日のクリスマス・イブ礼拝でお話しましたので今回は触れずに、3節に集中します。3節は「万物は言によって成った。成ったもので言によらないものは何一つなかった。」(panta dia autou egeneto. Kai chōris autou egeneto oude hen ho gegonen.)この世界に存在するすべてのもの、むろん、人間を含めてですが、万物はこの言によって存在しています。万物がイエス・キリストにおいて表された愛と憐れみ、恵みによって創造され、呼び掛けられています。この愛によって、意味づけられ、いのちを与えられているというのです。松尾芭蕉の俳句に「よく見るとナズナ花咲く垣根かな」というものがあります。「なずな」は春の七草のひとつではありますが、いわゆる「ペンペン草」です。ペンペン草もそこに咲いていて神を賛美しているのです。存在するものの根源、そのお方が、ペンペン草を通して語っていることに芭蕉は驚いたのです。まあ、「よく見ると」ということですから芭蕉のような感性、直観力も必要なのかも知れません。「成ったもので言によらないものは何一つなかった。」ここから読み取るべき重要なメッセージは弱肉強食社会、効率優先社会において、「人をものとして見る」社会において、生きる価値がないと言われ、立ち往生してしまう人、どのような人もキリストにおいて表された愛の対象であり、かけがえのない大切な人であるということです。2016726日相模原障碍者施設「津久井やまゆり園」において元職員が入所者19人を刃物で殺し、入所者・職員26人に負傷を負わせた事件がありました。犯人は「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和に繋がる」という思想を持っていたそうです。むろん、殺人事件そのものに皆さんの心が萎えてしまったと思います。しかし、私は自分の危険な心を暴露されたように感じました。この犯罪者は実はだれもが心の底に持っている想いを実現してしまったのではないでしょうか。私は、自分でもやりかねないこと、日々言葉で暴力的におこなっているという恐怖感を抱きました。人々から捨てられ、自分自身で自分自身を拒絶し、意味なし、生きていても価値なしと決めつけられ、決めつける愚かな人も、「すべて」「一人一人」がキリストの愛によって創造され、呼び掛けられ、支えられているというのです。人は、この言、この命、この光に耳を傾けることがないなら、死の世界、ニヒリズムの暗い闇に飲み込まれてしまうのです。

「光」であるキリスト・イエス、神の独り子キリストはこのような暗闇の中で輝いているのです。暗闇は光を理解しなかった」(katalambanō)は、「理解しなかった」で悪くはないですが、「闇はこれに勝たなかった」の方がよいと思います。英語のNRSVは、the darkness did not overcome it. と翻訳しています。

1960年代から70年代にかけた、黒人たちの公民権獲得運動の中で、We shall overcome somedayが歌われました。5節を積極的に言い換えれば、the light was overcoming the darknessでしょう。光は闇に打ち勝ったということでしょう。最初の弟子たちがイエスを信じたように、私たちも言である神の子イエスに信頼して生きましょう。だれがなんと言おうが、皆さんは、喜び、感謝して「いのち」を生きねばなりませんし、生きることができるのです。

 

共に、祈りましょう。

 

人を愛し、神に従順に従われ、その結果ユダヤ人当局者たちから疎まれ、弟子たちに裏切られ、棄てられたイエス・キリストは歴史の前方には復活の光を照らし、遡って後方には永遠のロゴスが肉となって来られたお方です。私たちはそれぞれの貧しいながらも喜びがあり、喜びがありながら寂しい人生を送っていますが、自分の物語をこのイエス様の物語に織り合わせて生きることができますようにお導き下さい。いつまでも残るものは「信仰と、希望と、愛であり、その中で最も大いなるものは愛であること」(Iコリント13:13)を信じていきることができますように、信仰と希望と愛の体現者であるイエス・キリストのみ名によって祈ります。(松見俊)