ヨハネ伝は、1:1~18において、キリストの存在を天地万物が創造される以前にまで遡り、壮大なドラマを提供しています。イエス・キリストは人としてこの世に生れ、彼を信じる人々には神の子となる資格を与えるお方、永遠の「言」が肉体を取って来られたお方であると言うのです。
1.「初めに言があった」(En archē ēn ho Logos)
「言」と翻訳された言葉は「ロゴス」というギリシヤ語です。現在はSNSなどで「情報」が溢れていますが、私たちに必要不可欠な真実な「情報」とは何かを見抜く力も重要です。情報の中心は「言葉」です。ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは「我と汝・対話」という本において「根源語」について語ります。「私とあなた」と「私とそれ」です。同じことを椎名鱗三の短編小説「美しい女」の一節から考えます。人間が互いに生きられるのは、人間が喋る言葉をどこか超えた「言」(ロゴス)を信じなければならないのす。この事実を信じなければ人間は「不安の奈落」に落ち込んでしまうことでしょう。
2.ダイナミックな神の語り
ギリシヤ社会の「ロゴス」は世界を秩序づけるものとして「理」(ことわり)というか、動きのない、静的な感じです。それに対して、イスラエルの世界では神の言は、語りかけ(ダーバール)という意味で、ダイナミックで、創造的です。対話を惹き起こします。創世記1:1~3とイザヤ55:8~11から引用します。
3.「言は神と共にあった。言は神であった。」
やがてイエス・キリストとして誕生する「ロゴス=言」は神と共に天地万物の創造を手伝うお方として、神ご自身の中での「父と子」、「我と汝」の愛の関係・出来事として、神と共にあったのです。
すべてのものはキリストによって顕わになった愛によって創造され、呼び掛けられています。「人をものとして見る」社会において、生きる価値がないと言われ、立ち往生してしまう人も、自分で自分を受け入れがたい人もかけがえのない大切な人です。(松見 俊)