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2024.5.19 「教会~違いを喜ぶ場所~」(全文) 使徒言行録2:1-13

1: ペンテコステ礼拝

 今日はペンテコステ礼拝となります。ペンテコステは、聖霊降臨日、イエス・キリストが自らの霊を聖霊として、この世に送ってくださった、その始まりの時です。今日読みました聖書では、このペンテコステのとき、そこでは、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に留まったとあります。ここでの表現はとても分かりにくいものとなっています。当時の筆者はルカにとされますが、ルカには、このようにしか表現できない出来事が起きた。それほど、人間の感覚を超えた出来事が起こったということなのです。この時、「音」や「舌」が現れ、そのあと、人々は、様々な言葉で、主の福音を語り出したとあります。つまり、ここでは、「音」や「言葉」に関係すること、しかも私たち人間の想像を超えた、表現できないような出来事が起こったと読み取ることができるでしょう。弟子たちは、激しい風が吹いてくるような音を天から聞き、炎のような舌がそれぞれの上に留まることで、聖霊に満たされて、様々な国の言葉で、主の福音の出来事を語りだしたのです。

 ペンテコステは、教会の誕生日の時とも言われています。今日の箇所は、聖霊が注がれ、それぞれの言葉で、神の偉大な業、福音を、語り始めたというところまでとしていますが・・・この後、14節からは、ペトロが力強く、福音を語り始め、その福音の言葉を聞き、41節では、この福音を受け入れた人々、3,000人ほどが、バプテスマを受け、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心な者とされていったのです。その後43節からは、人々が、心を一つにして、パンを裂き、食事をする者とされていった姿が記されています。ここに教会の原型ができていったのです。このように、聖霊に満たされた弟子たちが、様々な言葉で、福音を語り始め、その後、一つとされていった。それがこのペンテコステの時であり、ここに教会が生まれていったのでした。

 今日は、この教会という信仰共同体について、共に考えていきたいと思います。

 

2:  教会とは

 皆さんにとって、教会とはどのような場所となっているでしょうか。私たち一人ひとり、それぞれの人生の中で教会の存在の意味は違うものとなっているかもしれません。ただ、教会とはどのような集まりなのか・・・というとき、それは、ただ一つ「イエスをキリスト、救い主」と告白する者の集まりと言うことができるのです。教会には他の共通点を必要とはしません。言語、性別、年齢等、人間としての違いはまったく関係ありません。ただただ「イエス様こそが自分の主である」と告白する者が、教会に集まり、教会を形成していくのです。では、まだ「イエスを主としていない者」は来てはいけないのか・・・という問いが生まれるかもしれません。イエス様は、すべての人を愛し、迎え入れられました。そのイエス・キリストの体とされる教会です。教会にはどのような人でも迎え入れられるのです。イエス様も、誰も拒むことはありませんでした。教会もまた、誰でも迎え入れるのです。そのうえで、教会を形成するために繋げられていること、教会が教会である、その目的、理由としては「イエスをキリスト、救い主」であるということです。

3:  違いを持つ者が集まっている

 教会は、すべての者を迎え入れ、そのうえで、「イエスを主とする」ことを目的として繋げられているのです。それ以外は、何も必要ありません。そのような意味で、教会には、「イエスを主とする」ということ以外には、全く違う者が集まることになるのです。実際に、今ここにあっても、年齢、性別、国籍など、様々な違いを持つ者が集まっています。これが教会の豊かさであり、恵みなのです。ただ、ではそれが、実際に来ている人、私たちにとって、豊かな恵みとなっているでしょうか。それはそれで一言で、「そうなっている」とは言い切れないところがあるかもしれません。

人がコミュニケーションをとるためには、まず、共通点を見つけていくことが良い方法だと言われています。多くの場合、共通点から関係を作っていくのです。つまり、まず、趣味や好きなご飯、好きな服や好きなスポーツ、好きな歌、またはこれまでの人生の中でしてきたこと、習い事や部活など、または、旅行で行ったことのある国、何でもいいので、何かしらの共通点を見つけることが、人間関係を作りやすい方法だとされるのです。実際に、私たちも、お互いの関係を深めていく中で、最初は同じこと見つけ、その後、違うところを受け入れるといった順番になると思うのです。最初から全く同じところがない人と話す時、まず何を話していいのか、戸惑ってしまうのではないでしょうか。ただ、教会には、そのような、同じことを持たない者、全く違う者が集まっているのです。

 皆さんにとって、教会に来ること、全く違う者が集まることが、豊かな恵みとなっているでしょうか。時々、「あの人とは何を話していいのかわからない」とか、「あの人とは考え方が少し違うんだ」といった思いを持つこともあるかもしれません。このように思うことが悪いことではなく、むしろ人間としては当然の感覚なのかもしれません。だからこそ、本来人間は違いを持つ者ではなく、同じものを持っている人が集まるものなのです。わざわざ違いを持つ者と集まる人はあまりいません。その方が、自分にとって楽しいし、自分の考えに対して「私は違う」とか「あなたは間違っている」と言われることもないのです。

私たちは、違いを持つ時、その違いを裁いてしまう者となってしまうものなのです。その根本には、「自分は正しい」という思いがあるということです。「自分が正しいから、違う考えを持つ、あなたは間違っている」「あなたの考えはおかしい」と、違いを持つ者を受け入れるのではなく、裁き合ってしまうのです。これが私たちが、人間として生きる、そのままの姿です。私たちは、本来は、違いを喜ぶ者ではないのです。ただ、そのうえで、私たちは、この教会という場所において、違いによって持つ、嬉しくない、楽しくないという感覚の中から、それでも、そこに神様は恵みを与えて下さっているということを見ていきたいと思うのです。

私たちは、「イエスをキリスト、救い主」と告白するために、ここに集まっているのです。そのことが、まず一番にある。自分の楽しさや、または気持ちのよさではなく、時々は、不安や痛みを伴っていたとしても、そこに神様の恵みがあることを信じて集まる。それが教会なのです。

 

4:  聖霊による交わり 

 では、そのような違いによる、痛みや不安を持ちながら、時に、裁き合いながら、私たちは集まり続けることができるのでしょうか。それは人間の力だけでは無理な話だと思います。自分が苦しい思いをしながら、それでもなんとなく集まり続けるということはできないでしょう。どれほど頑張っても、いずれその心は枯渇してしまいます。自分の力だけで、違いを受け入れ続けること、それが出来るほど、人間は強くはないのです。そのうえで、では、私たちが教会を形成していくためには、どうすればよいのか・・・という時に、今日のペンテコステに目を向けたいのです。それこそ、教会の誕生日の日に、何が起こったのか。それは、聖霊の注ぎです。聖霊に満たされた者として、教会は作られていきました。つまり、私たち、自分ではできないところに、神様の御手が差し伸べられたのです。

 ペンテコステの時、聖霊が注がれ、聖霊が満たされる中、弟子たちは、それぞれ違う言葉で福音を語り出しました。弟子たちは、ただ、同じになることで一つの集まりとなることではなく、それぞれが違う言葉を語るまま、違う者としてある中で、集められ、教会が生まれていったのです。聖霊の導き。それは、同じ者として、一つとなることではないのです。同じ者が教会に集まることではないのです。聖霊は、最初に言いましたように、それは人間の業を超えた、出来事として、人間の想像、人間の理解を超えた出来事として、まったく違う者たちを集めてくださった。これは、人間の思いを超えた出来事なのです。

 

5:  お互いの不完全さを受け入れる聖霊の働き

 私たちは、この聖霊を受けた者として歩み出すのです。それは、お互いの違いを裁き合うことから、お互いの違いを喜ぶ者と変えられていくと言うこともできるでしょう。聖霊による交わりは、お互いの違いを喜ぶのです。先日読みました本の中に、このような言葉もありました。『神を絶対的な存在として中心に置くということは、自分の不完全さを受け入れるということであると思います。自分の不完全さを受け入れると、他者とのつながりが生まれます。他者とつながると新しい発見があるのではないでしょうか』(キリスト教保育誌2024年4月号p.38) 

 私たちが神様を知り、信じること。それは、自分の弱さを知り、その不完全さを受け入れて下さる神様を知ること、その愛に触れることです。神様は完全なる方です。ただその神様を信じる、私たちの信仰は不完全なのです。そこを間違えてしまい、自分が完全だと思ってしまうとき、「違いを受け入れない者」となり、裁き合う関係が生まれてしまうのです。自分が不完全であるということを受け入れる時、私たちは、お互いの不完全さという、つながりを見るのです。この自分の弱さ、自分の不完全さを受け入れるために、聖霊は働いてくださるのです。

 聖霊の働き。それは、「自分だけが正しい」「自分の考えは間違っていない」と思う者に、「私は完全ではなかった」という思いを与えてくださる。私たちが自分の弱さに目を向けることができるようにされる。それこそ、聖霊の導きを感じる時なのではないでしょうか。私たちは自分の間違い、失敗などにぶつかったとき、「さあ、ここに聖霊の注ぎを知ることができる道が開かれた」と信じていきたいと思うのです。人間の失敗は失敗ではありません。自分ではできないことを知る、発見の時なのです。共に生きるための始まりの時なのです。そして、この、お互いの違いを認め合う時、そこに本当に開かれた教会が生まれていくのでしょう。

 

6:  神の国を目指して

 今年度の標語は「開かれた教会を目指して」です。私たちは、この開かれた教会を目指して、ここに教会を造りあげていきたいと思います。それは建物のドアが開いているか、いないかではありません。私たちの心が、他者を受け入れる、違いを喜ぶ心とされているかということです。聖霊の注ぎを受け、心を変えられていく時、私たちは、お互いの不完全さ、違いを喜び、繋がる者とされていくのです。

 

私たちは、主の祈りでこのように祈ります。「御国を来たらせたまえ」。御国。神様の国。神様の完全なる愛の支配にある国。そのような完全なる愛の関係性に生きる時です。私たちは、この神の国を求め、祈り、そしてこの愛の関係を目指していきたいと思います。それは、ある意味、教会は、まだ完全ではないということでもあります。目指している状態、目指し続ける状態なのです。そのため、教会に連なる、私たちは、多くの間違いをし、失敗をして生きている者なのです。それが教会です。教会は、聖霊の満たしを受け、歩み出した者の集まりです。私たちは、ここに、神様の御国が来ることを願い、共に祈り合い、歩みだしましょう。ここに教会が教会としてあるために、日々、神の国を目指して、聖霊の注ぎを受け、「御国を来たらせたまえ」と共に祈り、歩んでいきたいと思います。(笠井元)