1: アブラハムを祝福する者
1節からメルキゼデクの話となります。メルキゼデクとは、創世記14章でアブラハムを祝福する者として登場します。
【アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。 彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に、アブラムは祝福されますように。 敵をあなたの手に渡された、いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。】(創世記14:17-20)
ユダヤの民にとってアブラハムは、自分たちの祝福の基として、神様と契約をした方と考えていました。アブラハムについては新約聖書でも多くの場所で記されています。このアブラハムよりも偉大な者としてメルキゼデクが登場しているのです。(ヘブライ7:4,7)
ユダヤの民は、アブラハムの信仰によって神様の祝福を得たのです。イスラエルの最大の救いの出来事、出エジプトの出来事も【神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。】(出エジプト記2:24-25)とあるように、アブラハムの信仰による神様の祝福の契約によって、神様がイスラエルを顧みてくださったのです。アブラハムを祝福する者、メルキゼデク。そのメルキゼデクと同様の大祭司とされるイエス・キリストは、神様とイスラエル、神様と人間を繋ぐ方として見ることができたのです。
2: メルキゼデクが示す、大祭司イエス・キリスト
メルキゼデクは詩編でも出てきます。【 主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)。」】(詩編110:4)
今日の箇所は、メルキゼデクの素晴らしさを話したいのではありません。イエス・キリストが偉大な大祭司であることを指し示す者として、メルキゼデクを登場させているのです。ヘブライ人への手紙で、これまで大祭司とは「弱さに同情してくださる方」(4:15)「無知な人、迷っている人を思いやることが出来る方」(5:2)「永遠の救いの源」(5:9)「先駆者」(6:20)とされます。そして7章では「義の王」「平和の王」「永遠の祭司」とします。(ヘブライ7:2-3)
3: 永遠なる方
3節、17節の言葉からは、メルキゼデク、またメルキゼデクに表されるイエス・キリストの永遠性を読むことができます。ユダヤにおいて、祭司はアロンの子孫レビ族でなければならないとされていました。それに対して、ここでは「父もなく、母もなく、系図もない」としたのです。メルキゼデク、そして、メルキゼデクと同じような者とされるイエス・キリストは、そのような世襲制によるものでもなければ、何族だからということでもなく、その存在は始まりも終わりもない、永遠なる者として語られているのです。
永遠なる大祭司、イエス・キリストとは、時間的に「無限の時間」、「いつまでも」という意味での永遠として読み取るよりも、「どのような時」も、「どのような瞬間」においても、いつも私たちと神様とを繋いでくださっているという意味で読み取っていきたいと思います。そして、私たちにとっては、無限な時というよりも、「今」本当につらい時に、どれほど苦しい時にあっても、変わることのなく、共にいて下さる方なのです。イエス・キリストは「どのような時」にあっても、大祭司として、人間と神様の間に立っていてくださるのです。
4: 律法という枠組みの限界
アブラハムはメルキゼデクの祝福を受け、その最上の戦利品のから10分の1を献げました。それに対して、アブラハムの子孫レビ族の者たちは、律法に命じられたこととして、他の民から10分の1を受け取っていたのです。(民数記18:20-21)
このことに関して、8節では【 更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。】(7:8)と言います。アブラハムがメルキゼデクに戦利品の10分の1を献げたことから発生した10分の1を献げるということが、今では律法の枠組みで定められ、いずれ死ぬ祭司職の者が10分の1を受けることになってしまっているとし、この枠組み、律法の限界を教えているのでもあります。
このことを通して、語ることは、律法という掟を受け取る人間の限界であり、そこから生まれてきた枠組みの限界です。
【その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。―― 律法が何一つ完全なものにしなかったからです――】(ヘブライ7:18-19)
16節から肉の掟、律法を行うことでは、人間は完全なものとはなることができなかったということ、それに対してメルキゼデクによって表される、朽ちることのない命の力によって立てられた、イエス・キリストの一方的な恵みにより希望がもたらされたことを語るのです。
聖書は、ただ神様の恵みのうちに救いをいただくことを教えます。私たちはキリストを通してなされた、神様の救いの恵みを受け取ることによって救いを得るのです。(笠井元)