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2024.5.26 「イエス・キリストに従う者」(全文) ルカによる福音書9:57-62

1:  それぞれの人生に関わる方

 今日の箇所では、まず【一行が道を進んで行くと】・・・とあります。この前の51節において、【イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。】とあるように、この時、イエス様はガリラヤからエルサレムへと向かう決心をして、歩き出していたのです。そして52節から、サマリアの村に入ったこと、ただ、そこでは歓迎されなかったこと、その後、一行は別の村に行ったこと、が記されています。そして、今日の箇所は、そこから、また、イエス様が、エルサレムへ向かって歩き出した記事となっているのです。

 イエス様は、これまで様々な人々に出会ってきました。ガリラヤで伝道を始められたイエス様ですが・・・その後、汚れた霊に取りつかれた者、重い皮膚病を患っている人、中風の人などに出会い、癒してきました。また、ファリサイ派の人々とも出会って、安息日について論争を行い、また、百人隊長の僕や、やもめの息子を癒して行きました。またルカの8章では、ゲラサ人の地方という、いわゆる異邦人のところにも行かれ、悪霊に取りつかれているとされている人に出会っていきました。そのほかにも多くの人々に出会い、様々な人と食事をし、論争をし、癒し、様々な人と関わって来られたのです。イエス様の歩み、その道は、様々な人々との出会いがあり、そして、イエス様は様々な人々の人生に関わってこられたのです。

今日の箇所では、3人の人が、イエス様と出会っていきます。それぞれに、イエス様に心を向け出会っていったのです。三人のうち二人は、イエス様に従いたいという思いを携えてやってきたのです。また、別の一人は、イエス様の方から「わたしに従いなさい」と声をかけて頂き、出会っていったのでした。イエス様の歩みは、それがどのような形であれ、様々な人々との出会いがあり、様々な人々の人生を巻き込んでいくものであったのです。今日の箇所では、このイエス様に出会い、イエス様に従うとは、どのようなことなのかを、ここでは3人の人を通して教えているのです。

 

2:  自分の力でイエス様に従う者

 最初の人は、イエス様にこのように言います。【「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」】(ルカ9:57)この人の言葉に対して、イエス様はこのように答えられました。【9:58「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」】(ルカ9:58)イエス様の言葉は、簡単に言うと、イエス様に従う道には、狐の穴、鳥の巣といったところ、つまり安心して横になる場所、雨や風、敵からも守られる場所がないことを意味していました。つまり、イエス様に従うということは、この地上において、そのような安住の地がなくなるということを意味していたのです。この時、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人の心の中には、自分の力でイエス様に従うことができるという思いがあったのでしょう。この言葉と同じような言葉をイエス様の弟子、ペトロが言いました。22章33節です。【22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。】(ルカ22:33)とあるのです。ペトロは「イエス様に従うならば、牢に入っても、死んでもよい。それでも自分はイエス様について行く」と言ったのです。今日、登場し、「どこへでも従います」と言った人も、ペトロも、「どこまでもイエス様についていくのだ」という強い思いがあったのでしょう。しかし、その思いは、人間として、自分の思いを中心におき、自分の力を信じた言葉であったのです。

これは、イエス様に頼り、イエス様を信じて、従うということではなく、むしろ自分の強い信仰、強い意志を信じていたのです。22章では、このように言うペトロに、イエス様は【22:34 「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」】(ルカ22:34)と言われたのです。イエス様は、ペトロのことをよくご存じであり、その思いの強さも、人間としての弱さも知っておられました。このペトロに、「あなたは自分の力で従おうとしているが、私に従うということは、そのように、自分の力に頼っていくことではない」と教えられたのです。

 今日、イエス様に従おうとした者の、この「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という言葉も同じ意味ということができるでしょう。このような者に対して、イエス様は【9:58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」】(ルカ9:58)と言われた。つまり、このように安住の地がなくなること、そしてそこに従うことは、どれほど人間として、決心をし、強い思いを持っていたとしても、人間が自分の力ではできないということを教えておられるのです。

 イエス様は、イエス様に従うときに、この世には安住の地がなくなることを教えられました。このことは、今日の箇所の前において、イエス様と、その一行が、サマリア人の村において歓迎されてないことを見てもそうですし、また、少し前になりますが、4章においてイエス様は故郷のナザレにおいても受け入れられず、会堂から追い出され、山の崖から突き落とされそうにまでなったことからも分かるのです。さらに、イエス様の誕生を考えますと・・・神の子であり、私たちの救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになった時、栄光の中に包まれて、ユダヤの王としてお城などで生まれるのではなく、むしろ生まれる場所すらもこの世にはなく、家畜小屋の飼い葉おけの中に寝かされるという形で、イエス様はこの世に来られたのです。 これが、イエス様の誕生であり、ここから始まったイエス様の人生です。それは、神の御子でありながらも、この世には、安心して寝る場所もない人生であった。そしてその人生の最後は、一番苦しい死に方として、十字架につけられて死んでいったのです。これが、この世でのイエス様の人性です。

 私たちがイエス様に従いきること、信じて生き続けることは、私たちがどれほど強い思いをもっていても、従い続けることはできない道。どこまでもへりくだる道です。この道を、私たちが、自分の力を信じて、自分の信仰の強さをもって、従い続けることはできないことを教えているのです。

 

3:   イエス・キリストに出会っていく

 二番目に登場した人には、イエス様が【「わたしに従いなさい」】(9:59)と招かれたのです。ここでは、先ほどとは逆に、イエス様が招かれた姿があるのです。イエス様に、人間が自分の力でしたがっていくことはできないとしつつも、だからといって、イエス様は、イエス様に従うことを拒まれているのではないのです。むしろ、「わたしに従いなさい」と、私たちを招いてくださっている。そのことを覚えたいと思うのです。

 最初の人に対してのイエス様の姿を見ると、誰もついていくことはできないと、イエス様に従うこと自体が拒否されているようにも感じてしまうかもしれません。しかし、イエス様は、私たち全ての人間を招いてくださっている。それがどのような者であろうとも、イエス様はすべての人間を招いてくださっているのです。この招きに対して・・・この二番目の人は、このように答えました。【「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」】(ルカ9:59)。ここでの、この父を葬ることは、律法に記されていることであり、大切な戒めでした。

しかし、イエス様は、この言葉に対して、このように答えられます。【「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」】(ルカ9:60)このイエス様の言葉は、少し冷たい態度に感じます。ただ、ここでイエス様が伝えたいことは、ただ律法的な行いに囚われ、形だけ、形式だけに固執してしまっている者に対して、そのように、形式だけで律法を行うことには、何の意味もないことを教えておられるのです。形に囚われて生きている人。それはある意味では本当に「死んでいる者たち」と言うことができるのかもしれません。何の目的で生きているのかも考えず、何を大切にするかも考えない。ただただ、そう決まっているから、そのようにする。誰もがしているから、同じように生きていく。そのような生き方には、生きた魂の姿を見ることができない。むしろ魂が死んだような人となってしまっていると言うことができるのです。 「死人を葬ることは、魂が死んだような人たちに任せておきなさい」。これは、形式だけに固執する者に対しての批判の言葉でもあるのです。このような形式だけ、形だけに囚われて生きているということは、私たちもそのようになっていないか、考えなければならないでしょう。

 私たちは、イエス様が何をなされ、何を語られてきたか、見なければなりません。形式ばかりに囚われてしまっている自分。そしてそのような者ばかりが集まる教会。それは、まさに魂の死んでしまった人々であり、魂の死んでしまった教会とも言うことができるでしょう。私たちは、自分のこと、自分の教会のことばかり考え、本当にイエス様が伝えたかったこと、イエス様が歩まれた道を忘れてしまうこともあるのです。 イエス様は、福音を語り、そして福音に生きられたのです。そのイエス様の生きた道は、弱く、小さくされている者、罪人とされ、人々からつまはじきにされているような、そのような者一人ひとりのところに来て下さり、共に生きて下さったのです。これイエス様が表された神の愛、福音です。

このイエス様に出会う中、人々は、心を癒され、死んでいた者は生きる者とされたのです。共に苦しみ、共に痛みを分かち合い、支えて下さる方が来て下さった。イエス・キリストに出会った人々は、孤独から解放され、それこそ、死んでいた心が、もう一度生きる意味を頂き、生きる勇気と希望をいただいたのです。私たちもまた、このイエス・キリストに出会い、神様の愛に触れ、生きる道を頂いていきたいと思うのです。イエス様の招きは、このイエス・キリストに出会うための招きであり、そして、このイエス・キリストに従っていくための導きなのです。イエス様は【「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」】(ルカ9:60)と言われました。私たちは、このイエス様の言葉を受け取って、キリストに従っていくのです。

 

4:  イエス・キリストを土台とした関係

最後の人を見ていきたいと思いますが、この三人目の人は、自分がイエス様に従うにあたって、条件を付けていくのです。【「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」】(ルカ9:61)この者は、主イエス・キリストに従う前に、まず家族にいとまごいをさせてください。それからあなたに従いますとしたのです。この者が求めたもの、それは、家族との関係でした。この者はイエス・キリストよりも、まず家族との関係を大切にしようとしたのです。

このような者に対して、イエス様はこのように言われました。【イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。】(ルカ9:62

家族を大切にすることがいけないことなのではないのです。キリスト教は、家族との関係を断ち切るように教えているのではないのです。それこそ、よく言われるのは、カルト宗教は、家族や友人との関係をすべて切っていくものであり、そこから抜け出せなくなっていく、そのような危険性があるのです。それに対して、ここでは、家族との関係を断ち切るのではなく、家族との正しい関係に生きることを教えているのです。イエス様は、イエス様よりも家族との関係を大切にしようとする者に、そのような順番ではなく、まず神様に従いなさい。まず神様との関係を一番に置きなさい。そして、それから家族に目を向けていくことを教えているのです。

私たちほとんどの人間の最初の関係は家族との関係となるでしょう。そして、一番近い関係も、ほとんどの人にとっては家族が、とても近い関係となっていると思います。だからこそ、家族を大切にし、家族を愛し、家族と支え合うことは、とても大切なことになると思います。皆さんは、いかがでしょうか。皆さんにとって、家族との関係はどのような関係となっているでしょうか。マザー・テレサは「一番近くにいる存在、家族を愛することから、世界の平和が始まる」とまで言いました。それほどまでに、私たちにとって家族との関係は、人生を左右するものとなっているものなのです。しかしまた、だからこそですが、この家族との関係において、あまりにも近くなりすぎて、依存状態依の関係になってしまっていることもあれば、力による間違った支配関係が生まれていることもあるのです。

これは家族だけではありません。もちろん家族との関係が一番ではない人もいるでしょう。友人、先生など、様々な関係があります。そして、そのどの関係が一番なのか。それも、それぞれかもしれません。ただ、そのような私たち人間に、イエス様は、「まず私に従いなさい。私に従い、私との関係を土台として、そこからお互いの関係を作っていきなさい」と教えられているのです。私たちは、すべての人間同士の関係において、その土台に、神様の愛、イエス・キリストを置く必要がある。そしてそのイエス・キリストを通して、私たち人間は、関係を作っていく。それが本当の正しい人間の関係となるのです。

 

イエス様は、私たちが、この世において、全ての人と愛し合い、共に支え合い、共に生きることを望んでおられます。そしてそのために、まず、「私に従いなさい」と教えられているのです。私たちはこのイエス・キリストに従っていきたいと思うのです。イエス・キリストは、すでに、私たちのもとへと来てくださっています。私たちは、このイエス・キリストにすべてを委ねて、この「わたしに従いなさい」という招きに応え、そこから、隣人一人ひとりと向き合い、歩んでいく者とされていきたいと思います。(笠井元)