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2024.5.29 「永遠の執り成し主、イエス・キリスト」 ヘブライ人への手紙7:20-28

1:  律法は廃止されたのか

 メルキゼデクはレビの系統の祭司ではなく【7:3 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。】(ヘブライ7:3)とするのです。そして、イエス・キリストをこのメルキゼデクと同じような祭司とするのです。そして、今日の箇所では、「誓いによって祭司となられた方」(20-21)であり、「永遠に生きている祭司」(21,24)であると教えます。

イエス様を大祭司とするならば、祭司制度は変更されたのだから、律法自体がもはや変更される(7:12)とし、18節では律法は廃止されたとします。ヘブライ書は律法を強く否定しています。この背景には、このヘブライ書を読む教会に、律法主義者が入り込んでいたのではないかとも考えられます。

では、律法はまったく意味のないものとなってしまったのでしょうか。イエス様はこのように言われました。【5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」】(マタイ5:17-18

律法は出エジプトという救いの出来事に基づいて与えられた掟です。先に神様の救いがあるのです。私たちは、イエス様の「律法を廃棄するのではなく、完成するために来られた」という言葉を頂きたいと思います。

 

2:  永遠なる方 聖なる方

これまでの祭司は、どれほど素晴らしい祭司であっても、人間である以上「死」というものに捕らえられているのです。これは誰も変わることのないことです。人間には越えられないものがある。その一つが「死」であり、27節ではもう一つとして「罪」が挙げられています。

人間がすべてを越え、神様の許で、向かい合う者となることはできないのです。それに対して、イエス様は永遠に生きておられる方です。死に捕らわれていない方であり、罪に飲み込まれることのない方なのです。イエス・キリストは永遠なる方であり、聖なる大祭司なのです。

 

3:  神の誓いによって祭司となられた方

 21節では、神様は誓いをもってイエス・キリストを祭司とされたとあります。これまでの祭司は律法による世襲制度によるものでした。それに対して、ここでは神様の誓いによってイエス様は祭司とされたとあるのです。神様の誓いは、永遠に変わることはありません。また祭司となられたイエス・キリストも永遠なる方です。私たちの信仰の根底には、この神様の誓いがあり、キリストの応答があるのです。神様とイエス・キリストの完全なる関係が、私たちの信仰の土台となっているのです。私たちは、この変わることのない、神様とイエス様の関係に繋がっていきたいと思います。これが希望の道となるのです。

 

4:  大祭司、執り成す者が必要とされている

 ヘブライ書では、どうしてこれほどにイエス様が大祭司であるということが語られるのでしょうか。この世に生きる私たちには、祭司、つまり、神様と、私たち人間の間に立ってくださる方が必要だと教えているのです。私たちには執り成しをしてくださる方が必要なのです。

 24節からこのようにあります。【7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。 7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。】(ヘブライ7:24-25

イエス様は今も生きて、私たち人間と神様の間に立って、繋げて下さっているのです。永遠に人間を執り成してくださるイエス・キリストによって、私たちは神様に近づき、完全な救いを得る者とされたのです。

イエス様は【聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされているおられる大祭司】(ヘブライ7:26)とされます。人間と神様との間には大きな壁、溝があります。私たちが自分の力で神様に繋がることは不可能なことです。だからこそ大祭司、執り成し主、イエス・キリストが与えられたのです。これが神の救いの出来事です。

イエス・キリストは、ご自身を献げることによって、この神様と人間を繋げるということ成し遂げて下さったのです。(ヘブライ7:27

 

5:  イエス・キリストに支えられて祈り合う

教会ではお互いのために祈ります。私たちはお互いのために祈っているでしょうか。お互いに祈られていることを喜んでいるでしょうか。私たちは隣人を覚え、愛し、お互いのために祈る者とされていきたいと思います。私たちの祈りがどれほど不十分で、言葉足らずの祈りであっても、イエス・キリストが共に祈り、整えて下さるのです。私たちはイエス・キリストが執り成し、祈ってくださることを覚えて、祈り合っていきたいと思います。

私たちが誰かのために素敵な祈りをすることができたとしても、そこにイエス・キリストがいなければ、その祈りは、神様とその人を繋げる完全な祈りとはなりません。また、そこにイエス・キリストがいれば、それは完全な愛の祈りとされるのです。

 

私たちはイエス・キリストが、神様と私たち、そして私とあなたという関係に立っていて下さり、執り成して下さっていることを覚えたいと思います。