1: すべての人に向けられた福音
今日の箇所で、イエス様は72人を選び、派遣されました。9章には12人の派遣の記事があります。この12人というのは、その前の6章で選び出された、いわゆるイエス様の12弟子のことで、イエス様が選び出した、12人の弟子を、神の国を宣べ伝えるために遣わしたという記事になります。この12人の派遣の記事は、別の福音書、マタイ、マルコにも記されている記事となります。ただ、この72人の派遣というのはルカによる福音書だけの記事、ルカの独自の記事となっています。また、この72人という人数は、別の訳では70人とされており、これは、創世記10章の記録が影響を与えた数字ではないかと考えられています。創世記10章では、ノアの系図が記されている箇所となり、創世記の10章32節では【ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た。】(創世記10:32)とあるように、ノアから、全世界の諸民族が広がっていったことが記されているのです。この時の創世記10章に記されている諸民族の数がヘブライ語の聖書では70とされ、ギリシア語の聖書では72とされているのです。このノアの系図は、世界のすべての諸民族、全世界の人々を意味する象徴的な言葉とされており、ここで、72人が派遣されることは、イエス様の福音がすべての人々に向けて向けられていることを意味する言葉となっているのです。イエス様の伝える神の国、その福音はすべての人々に向けられているのです。
また、ここでは、この派遣された人々を迎え入れる町もあれば、迎え入れない町もあることが、最初から予想されています。3節では、【行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。】(ルカ10:3)とあるように、確かに、迎え入れない人々がいて、この弟子たちの歩みはとても困難な道であることを教えているのです。イエス様に従い、神の国を宣べ伝えていくことは、簡単なことではなく、全ての人が喜んで迎え入れるわけでもないのです。ここでは、そのような狼の群れに送り込まれるような厳しい道とわかっていながらも、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」と、イエス様が72人を任命し、派遣されていくのです。イエス様の福音は、迎え入れる者だけだはなく、迎え入れない者も含めて、すべての人に向けて語られているのです。また、ここでは、9節、11節において、迎え入れる者にも、迎え入れない者にも「『神の国は近づいた』と語りなさい」と教えているのです。つまり、迎え入れる者に対しても、迎え入れない者に対しても、言葉を変えることなく、同じ福音を宣べ伝えることを教えているのです。福音は、受け入れる、受け入れないことは関係なく、全世界へと発信されている。そして、そのように伝えるように、イエス様は、私たちを遣わしておられるのです。
イエス・キリストが伝える神の国、神様の愛の御業。それは誰にでも、どこまでも同じ言葉で語られるものです。相手によって言葉が変わることはない。また相手を見て、話すことを止めることもない。全世界の人々に伝えられる言葉なのです。そのためにイエス様が弟子たち、そして私たちを派遣しておられるのです。私たちはこのイエス様に招かれ、そしてイエス様に派遣されているという意識を持って、福音伝道の業に励む必要があるでしょう。
今年度の標語は「開かれた教会を目指して」とありますが、今日の記事は、まさに、受け入れるか、受け入れないかは関係なく、すべての人にイエス様の福音は開かれていることを教えるのです。このことを覚えて、私たちは教会形成、そして伝道をしていきたいと思うのです。神様の愛はすべての人に開かれている。すべての人に伝えられるべき言葉なのです。
2: 収穫は主が行われる
イエス様は2節で【「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」】(ルカ10:2)と言われました。ここからは、収穫をする者が少ないということを読むこともできますが、その前に、まず、収穫するのは「主」、神様であるということを知りたいと思います。今日の1節では、【御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。】(ルカ10:1)とあるように、イエス様ご自身が、これから行かれるつもりの町や村に72人を先発隊として遣わされたことが記されているのです。つまり、その後、収穫の主とされるイエス・キリストが来られるということです。そのように考えると、いずれ来る「神の国が近づいた」という言葉と繋がり、いずれ来る、神の国、イエス・キリストによる神様の愛の支配の時がいずれ来る。収穫の主が来られることを読み取ることができるのです。
また、11節では迎え入れない町に対して、【『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。】(ルカ10:11)言うようにとあります。この足についた埃を払い落とすということは、その町を去る時の儀式としてあったとされ、この町と自分とは、もはや何の関係もないことを表す行為とされます。つまり、福音を宣べ伝えても、そこでは迎え入れられない場合に、そのことから、自分の力のなさや、自分の無力さに落ち込むのではなく、いずれ来る、収穫の主であるキリストに委ねることを教えているのです。
私たちはキリストの福音を伝える者として招かれ、派遣されています。しかし、その結果は私たちの問題ではないということです。神様の愛を伝えたい。神様の愛をもっと知って欲しいという情熱をどれだけもっていても、実際に、その愛を受け入れてくれる人がとても少ないとして、自分のしていることの虚しさや限界を感じていくこともあります。このような状況に陥る時に、教会の働き自体が無駄であって、何もしなければよかった。自分の選んだ道が間違っていたと、自分を否定してしまうこともあります。そのような教会に、今日の箇所では、福音伝道は、その人間の行為の良し悪しで、結果が出るということではない。その結果によって自分自身を責めることも、否定することも、必要ないと教えているのです。私たちのすべきことは、ただ頂いた福音、神様の愛を、すべての人に同じように伝えることです。
イエス様は【「収穫は多いが、働き手が少ない。」】(ルカ10:2)と言われました。私たちは、働き手なのです。収穫の主が招き、派遣してくださっている者なのです。私たちがすべきことは、この神様の愛を喜んで伝えることでしょう。私たちは、まずこの働きを担う者として歩みだしたいと思います。そして、そこまでが私たちの仕事なのです。その後、どれだけの人が、その愛を受け入れるかどうかということは、神様の範疇なのです。私たちは、自分の働きによって、誰かが福音を信じたからといって、誇るものでもありませんし、また、信じなくいからといって、落ち込んでしまい、自分のことを否定する必要もないのです。すべては神様がその責任を持ってくださり、その道を整えてくださるのです。これが福音です。そして、だからこそ、私たちは、このことをしっかりと覚えて、働き手とされていきたいと思います。
私たちは収穫の働き手なのです。実際に収穫をするのは神様なのだということは、何もしないでも良いということではありません。何も心配することなく、私たちは、精一杯、神様の愛を、すべての人に伝え続けることが示されているのです。これが、私たちに与えられている使命です。
3: 平和があるように
ここでは、その福音として、まず「平和があるように」と言うようにと教えられています。福音。それは平和を受け取ることとなります。ここで言う、この「平和」とは、ただ戦争がないこと、争いがないことだけを意味するものではありません。平安であること、神様と人間、人間と人間が正しい関係に生きることを意味している言葉なのです。結婚式などでよく言われる言葉ですが、人間と人間が正しい関係に生きるために「お互いがお互いに向き合うのではなく、お互いが同じ方向、キリストに目を向けて歩んでください」と言われます。この世にあって、人間が、ただお互いに向き合うだけの関係にあるとき、見えてくるのは、お互いの欠点や間違い、その弱さばかりが見えてくるものなのです。この教会は付属の幼稚園があり、私は、その園長でもあり、ここ2年間は福岡市全体の幼稚園の皆さんが研修をするための委員会に入っていました。そのため多くの研修会に参加することとなったのですが・・・幼稚園の研修では、保育者に対しても、保護者に対しても、根本的なところでは、「子どもを愛しましょう」「子どもたちを大切に思って、関わりましょう」ということが前提となります。研修は、そのための方法を教えているのです。保護者もですが、いつもずっと子どもと向き合っている中で、いつの間にか、子どもを愛することを忘れてしまうことがある。だからこそ、研修で、もう一度そのことを思い出すように、また、その方法を学んでいくのです。子どもは素直で純粋だと言われますが、その純粋さは、人を傷つけることもあり、その自由さは、人に迷惑をかけていることなどは全く考えない、言い方を変えると、少し語弊がある言葉となりますが、ただのわがまま、自己中心なだけともなってしまうのです。このような子どもとずっと関わることは大変なことなのでしょう。保護者、保育者は、子どもを愛して接するということを忘れてしまうことがあるのです。
これは、子どもと大人という関係だけではないのです。大人同士も変わらないでしょう。お互いがお互いだけで向き合い続ける時、やはり、いつかどこかで受け入れ合う限界を迎えてしまうものなのです。「わたしのほうが、あの人のことを思って行動している」「あの人の方が、私のことを考えていない」「損をした気持ちになる」「愛し合う、譲り合う、助け合うことも、もう努力の限界だ」となっていくことが多々あるものです。だからこそ、私たちは、正しい、関係を作るために、お互いに目を向ける前に、まず共に神様を見るのです。どこまでも、変わることなく、徹底気に私たちを愛してくださる方。自分がどれほど苦しんだとしても、どこまで痛みを伴うことであっても、その命を投げ出してまで、私たちを愛してくださっている神様に目を向けるのです。私たちは、この神様の愛を受け、愛を頂いて、仕え合う関係、愛し合う関係を作っていくのです。ただお互いに向き合って、お互いに向き合うことに疲れ、心が枯れはててしまう前に、心に愛を補充するのです。これが人間同士の平和の関係、平安とされていくこととなるのです。
平和であること、それは、そこに神様の愛の業が実現されていくことを意味します。この平和の実現のために、イエス・キリストは十字架で死に、そして復活されたのです。ルカの24章では、復活されたイエス様に出会う場面が記されています。その中でイエス様はこのように言われました。【こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。】(ルカ24:36)イエス・キリストは復活された時、「あなたがたに平和があるように」と言われました。平和。神様との正しい関係。そしてお互いの正しい関係。つまり、神様の愛によって繋げられた関係は、このイエス・キリストの復活、新しい命によって作り出されていくのです。
つまり、これまでの考え、自分を中心にした考えを捨て、愛されている恵みを頂き、新しい命に生きることによって、平和を造り出す者と変えられていくのです。イエス様は、この言葉「平和があるように」と伝えていくようにと、私たちを派遣してくださっているのです。それは、まず、私たちがこの平和を頂くこと、神様の愛を受けて、新しく生きることから始まる道です。私たちは、自分がまずこの福音の言葉「平和があるように」という言葉を頂きましょう。そしてその救いの恵み、新しい命に生きる恵みを持って出て行きましょう。(笠井元)