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2024.6.9 「ご自分の民の拒絶と神の子らにする力」(全文) ヨハネによる福音書1:6-13

この個所はヨハネ1:1~18の序論、序曲の内、二番目に位置しています。9~13節はイエス・キリストとは誰であり、何であるのかを簡潔に述べています。それはヨハネ福音書全体の要約ですが、まず、その前に書かれている6~8節に簡単に触れておきます。

1.世の闇に輝く神の子イエスを証しする蛍のようなヨハネ(6~8節)

バプテスマのヨハネについては、既にかなりお話していますので、一言だけ述べておきます。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」先日、私の東京の大学生時代のクラス担任であった中村草田男さんについて書いている本を読んでいましたが、そこに面白いことが書いてありました。(「中村草田男論」の128頁です。)引用します。「西欧では蛍のことを『聖ヨハネの虫』と呼ぶならわしがあるという。(注75によるとペテロ・ネメシェギ『蛍』(南窓社)からの引用です。)このヨハネは洗礼者ヨハネのことである。そう呼ばれる理由は定かではないが、一説には、西欧では蛍がヨハネの祝日とされている624日前後に良く見られるからであると言う。また、イエズスがバプティスマのヨハネについて次のように言ったこととの関りも十分考えられる。「ヨハネは燃えて輝くともしびであった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。第535節)。ここから着想して、草田男は俳句で、蛍が修道院の屋根の上、男性修道士たちが静かに祈る尖塔の周りを音もなく乱れ飛んでいることを歌っています。蛍は、焦がすような熱い火というよりも、闇の中に、ほのかに点滅する光です。蛍は綺麗な水がない処では生活できないとのことです。昨今は蛍を余り見なくなりました。現在の文化は蛍火のようなヨハネが指し示すイエスなどに見向きもしないし、もっと明るいもの、もっと刺激的なものを求めているのではないでしょうか。現代は静けさと祈りを失うと共に、光も闇も両方とも失っている社会のような気がします。ヨハネは真の光であるイエス・キリストを証しする小さな、蛍のような光でした。6月に入りました。明日10日は福岡大空襲の記念日、そして、23日は沖縄の「ぬちど宝」の日です。静かな祈りの中で「平和」を祈りましょう。ヨハネのことはこれで終わりです。

2.神の言:イエス・キリスト(9~13節)

 では、9~13節に移ります。この数節はイエス・キリストとは誰であり、何であるのかを簡潔に述べていると申しました。

2-1 人と神とを照らすイエス・キリスト

 9節は力強い肯定的文章です。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」ものを見るには光がなければなりません。人生の道を歩んでいくにも光に照らされねばなりません。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯(詩編119:105)とある通りです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2:5)と勧められています。光は闇の中を往く私たちの道を示しますが、まことの光であるイエス・キリストは私たちに神をも示します。私は詩編3610が好きです。口語訳で読みます。「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」太陽を直接みたら目がくらみ、目を痛めます。同じように、私たちは光である神を直接見ることはできません。この世界に来て下さり、肉体を取って下さったイエス・キリストという光によって目に見えない神、光の神を見ることができます。「われらはあなたの光によって光を見る。」とは素晴らしい神の恵み、憐れみを語っています。ヨハネ伝によれば「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」この光であるイエス・キリストは人と人が歩む道を照らすだけではなく、私たちに神ご自身を見させてくださるのです。少し聖書の言葉を先取りすれば、18節にこうあります。「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」直接神を見たら目が潰れてしまいます。ですから、神はそのみ子を遣わし、み子を通して、憐れみを通して、ご自身を示されたのです。

2-2 この世の暗さ

福音の要約においては、光とのコントラストで、この世界の闇、暗さについて、神と人、イエス・キリストとこの世の深い断絶、溝が描かれています。「言は世にあった。世は言によってなったが、世は言を認めなかった。3節の繰り返しのように、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」が繰り返されているわけです。「世は言によってなったが、世は言を認めなかった。」「認めなかった」という強い翻訳になってはいますが、ここでは端的に「知らなかった」「認識しなかった」という感じです。あからさまな拒絶というより。「無視」「考えないことにしている」に近いのだと思います。ここにすでに、この世の本質の暗さ、そして、イエス・キリストの生涯の悲劇性というか「悲しみ」が表現されています。むろん、この世は自らを暗いとは思わず、愉快に、はしゃいではいるわけです。しかし、この世は、どこか神を無視した暗さと騒がしさの入り混じった世界なのではないでしょうか。

2-3 イエスを拒絶したユダヤ人

 この世はイエスの到来、本来言によって成り立っていることを無視しますが、では、イエスの同国人であるユダヤ人はどうであったのでしょうか?14節で語られることになるのですが、イエスとして「肉となり、歴史世界に到来した言」はユダヤ人でした。キリストは、ユダヤ人の一人として生れ、ユダヤ人を愛し、ユダヤ人を神の恵みへと招きましたが、「総体」としてユダヤ人はイエスを拒みました。ペトロやパウロ、バルナバ、そしてその他の弟子たちはユダヤ人ではありましたが、大方の、「総体」としてのユダヤ人はイエス・キリストを拒絶したのでした。ローマの軍事力、政治力、経済によって、いわゆる「ローマの平和」のもとで、「属州」ではありましたが、ある程度の自治も許されていて、ユダヤの祭司たち、律法学者たち、長老たち、同時の社会的権力を持っていた人たち、まさにユダヤ人の代表たちがイエスを残酷な十字架の死刑へと追いやりました。むろん、イエスの男性の弟子たちもイエスを裏切り、孤独の中へと見捨てました。「言は、自分の民のところへ来たが(eis ta idia ēlthen)、民は受け入れなかった(hoi idioi auton ou parelabon。私はこの「自分の民」という言葉に胸が痛みます。実は、「自分の民」と翻訳されていますが、「ご自分のもの」という言葉で「民」という字はありません。この表現との関連で、私はヨハネ13:1を思い起こします。十字架で殺される前の晩の場面です。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(tous idious tous en tō kosmō )ここでも「弟子たち」という表現が用いられていますが、原語は世にいる「自分の者たち」です。口語訳はそのように翻訳しています。ヨハネ1:11の「自分のものたち」そして、13:1の「自分のものたち」という表現に何とも言わない味わいを覚えます。これはむろん、所有権を表わしているわけですが、それ以上に、親しい交わり、愛の関係を表現しているのではないでしょうか。その深い愛、慈しみはどこか「一方通行」であって、ご自分のものなのに、この愛と憐れみの招きを、招かれた人々は「認めなかった」「受けれなかった(parelabn)」、明確な拒絶です。いわば彼の「ホーム」「自分の家」(ヨハネ19:27)に来たのに拒絶されたのでした。いわば「ホームレス」の人生を主イエスは生きられたのでしょうか?こうして、イエス・キリストはこの世では取るに足りない者として「無視され」、自分の民であるユダヤ人からは「拒絶された」のでした。ここにイエス・キリストの生涯の悲劇性、この世と神との深い断絶が語られています。

2-4 神の子らにする力

 しかし、イエスの人生は虚しく、力のないものだったのでしょうか!この12節の「しかし」(de)を聞き取らねばならないでしょう。言は、「しかし」、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。それはたとえ常に少数派であったとしても、この世では力のない勢力であったとしても、「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子らとなる資格を与えた」のです。ここで注意したいのは、「資格」という言葉の響きです。クリスチャンになるには「資格」などあるのでしょうか?だれがそのような資格を持つでしょう! ここでも翻訳の問題があります。口語訳は「力」と翻訳しているので、圧倒的に口語訳が良いと思います。(exousiaは確かに「権威」ですが)、言自体に「力」があり、信じる者らを「神の子ら」にすることができるのです。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、神によって生まれたのである。」ここに福音というかイエス・キリストの喜びが描かれています。クリスチャンは血縁関係に頼らず、血縁関係から解放されています。クリスチャンは社会的地位や学歴、そして、宗教的センスや精神的気高さなどの「肉の欲」「人間の意志」(ek thelēmatos andras)によって生きません。そのような「肉の欲」が支配しますと人と比較して劣等感や優越感に陥り、気分の浮き沈みに悩むことになります。しかし、クリスチャンはここでは書いてありませんが、霊から、神の恵みから生み出されるのです。クリスチャンは「数」としては圧倒的な少数派でしょう。特に、日本ではそうです。しかし「真理」は「数」を超えており、キリストの弟子は「地の塩」として世界の道徳的腐敗を防止し、絶妙な「味付け」をする塩としての働きをしているのです。ここに夢があり、希望があります。

3.神によって「生まれる」(ek theo egannēthēsan)

 

 最後に、神によって「生まれる」ということに触れておきます。人は母親、そして、傍らにいる父親から生れてきたのですが、それは「肉」のことがらです。人はもう一度、新しく、神の恵みによって「生まれること」が必要なのです。それは肉の持つ限界というか束縛から解放されて、自由に「わたし」として生きるため、「あなと」と共に生きるためです。教会でもすべての人が自分を、自分がすべての人を理解しているわけではないでしょう。しかし、一人一人が神によって生れ、また、生れつつあるものとしての「わたし」であり、「あなた」であり、「わたしとあなた」の交わりであることを喜びましょう。(松見俊)