この個所はヨハネ1:1~18の序論の二番目に位置します。9~13節はイエス・キリストとは誰であり、何であるのかを簡潔に述べます。それはヨハネ福音書の要約ですが、まず、その前6~8節の部分に書かれていることに簡単に触れます。バプテスマのヨハネについて、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と言われます。西欧では蛍のことを『聖ヨハネの虫』と呼ぶ習わしがあるらしく、蛍がヨハネの祝日とされている6月24日前後に良く見られるからだそうです。中村草田男は男性修道士たちが静かに祈る修道院の尖塔の周りを音もなく乱れ飛んでいる蛍のことを歌っています。10日は福岡大空襲の記念日、そして23日は沖縄の「ヌチドタカラの日」です。蛍のような光かもしれませんが、静けさの中で平和を祈る証人になりましょう。
1.9~13節の数節はイエス・キリストとは誰であり、何であるのかを簡潔に述べています。まず、9節は力強い肯定的文です。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」光であるキリストを通して、私たちは闇の世界の姿と見えざる神の両方の姿を見るのです。
2-1この世の暗さ:福音の要約においては、光と闇のコントラストで、この世界の闇の暗さについて、神と人、イエス・キリストとこの世、そして、ユダヤ人たちとの深い断絶、溝が描かれています。「言は世にあった。世は言によってなったが、世は言を認めなかった。」あからさまな拒絶というより。「無視」に近いのでしょう。現代日本文化を暗示しているかのようです。
2-2 同国人のユダヤ人は「総体」としてイエスを拒みました「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」ここで「自分の民」とありますが、端的に、「ご自分のもの」です。ヨハネ13:1も「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とありますが、原語は世にいる「自分の者たち」です。信仰者をイエスは「ご自分のもの」と言われます。
2-3 神の子らにする力
「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」のです。クリスチャンになるには「資格」などあるのでしょうか?ここでも神の子らになる「力」を与えたと原語通りに理解します。
3 神によって生まれること
人は肉体的には親から、精神的には神の恵みから生れる必要があります。霊のバプテスマへ招かれています。(松見 俊)