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2024.6.16 「心を開き、悔い改める者とされる」(全文) ルカによる福音書10:13-16

1:  イエスの嘆き

 私たちの教会では、現在、新共同訳聖書を使用していますが、この新共同訳聖書には、口語訳、新改訳などにはなかった小見出しというものがついています。2018年には、聖書協会共同訳という聖書が出版されましたが、こちらにも小見出しがついています。今日の箇所の小見出しは「悔い改めない町を叱る」となっています。この小見出しは、使い方によっては便利なものとなります。ただ、覚えておかないといけないのは、この小見出しは、もともと聖書にあった言葉ではないということです。つまり、これは聖書に記されていますが、聖書の言葉ではないのです。そのため、この小見出しは、新共同訳聖書が出版されたときに、この聖書を翻訳した人たちの主観で付けられたもので、この小見出しがその箇所の要点を必ずしっかりと捉えているとは言い切れないものだということです。また、この小見出しがあることで、聖書の言葉を一つの決まった意味としてのみ聞いてしまい、聖書から頂くことができる恵みの広がりがなくなってしまうという問題もあります。 このような意味で、小見出しを見る時は注意をする必要があります。その上で、今日の箇所の小見出しは「悔い改めない町を叱る」となっています。これは先ほど言いましたが、2018年に出版された聖書協会共同訳でも同じ小見出しとなっています。確かに、この内容を見てみますと、イエス様が激しい口調で、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町に対して叱責しているように見ることができるのです。この言葉から読み取るならば、「悔い改めない町を叱る」という小見出しをつけることもできると思います。ただ、この聖書の箇所を読み取る時に、イエス様が、悔い改めない町を叱責し、裁かれていくという意味としてだけしか読み取ることができないかといえば、そうではないでしょう。私たちは、この箇所から、神様の恵みの広がりを見ていきたいと思います。

 このコラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町は、イエス様が中心的に福音伝道をなされたガリラヤ湖北部沿岸の町々でした。それに対して、ティルス、シドンというのは、もっと北にある地中海沿岸の町々で、旧約聖書では、異教の町の典型とされた町々でした。イエス様はこのコラジン、ベトサイダに向かって「お前は不幸だ」(ルカ10:13)と言われました。この「不幸だ」という言葉は、「叱る」というよりも、むしろため息をつき、「ああ・・・なぜだ・・・」といった、嘆きの言葉として見ることが出来るのです。イエス様は、ここで、このコラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町々が悔い改めないことに、嘆き、悲しんでおられたのです。イエス様は、この三つの町がある、ガリラヤ地方を中心に福音を語り告げる働きをされていたのです。しかし、そのイエス様の言葉を聞いた町々、そして聞いた人々は、すべての人が、その言葉を喜んで受け入れ、神様へと目を向けていったのではありませんでした。むしろ、そのような神様の言葉を語るイエス様を追い出そう、そして殺そうとまでしたのです。そのような町々、そして、そこにいる人々の姿を見て、イエス様は、嘆き、悲しまれたのでした。

 この時、イエス様はコラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムと名前を挙げて嘆かれているのです。ここでは、この三つの町の名前をわざわざ挙げないで、ガリラヤ地方と言うこともできました。このように、それぞれの名前を挙げて嘆くイエス様の姿は、それぞれの町々に目を向けられていたこと、そしてそれは、町だけではなく、その町にいる人、一人ひとりに目を向けて、おられることを読み取ることが出来るのです。イエス様は、その町にいる、一人ひとりの人生に寄り添い、共に生きてきたのです。イエス様は、苦しむ人と共に、苦しみ、悲しむ者と共に、悲しまれたのです。そして、だからこそ、イエス様は、この町々の人々に、「悔い改めて欲しい」「神様の愛を喜んで共に受け入れて欲しい」という強い願いをもっており、またそれでも悔い改めない姿を見る中で、悲しみ、苦しみ、嘆き、叫ばれたのでした。ここに、イエス様の嘆きを見ることが出来るのです。

 

2:  悔い改めること

イエス様は、この町々、そしてそこにいる一人ひとり、そして私たち一人ひとりが悔い改めることを願っておられるのです。この悔い改めということを考えるにあたって、先日、私が読んでいた本に、このような内容の言葉があったのでご紹介したいと思います。

「私の幼少期のキリスト教は、不幸から抜け出す道を私に与えてくれなかった。かえって罪を強調し、・・・『私たちは自分の罪を悔い改めなければなりません』・・・『あなたは何と罪深い人間であるか』・・・と教える。私たちは礼拝で、罪の自覚をもって立ち去る。そして、翌週、また礼拝に罪が赦されるために、善意と善行、(善い行いのことです)の詰まったもう一つの籠を持って戻ってくる。ここに「罪と犠牲、悔い改め、そしてまた罪の自覚・・・という永遠に続く循環がある」。

この言葉は、罪の自覚と悔い改めという永遠の循環が自分を苦しめていた、という告白です。そして、この本ではこのように続いていました。

「本当に聖書の教える『良き知らせ』とは『キリストが世に来られたことは、このような私たちに、あなたはイエス・キリストの名によって赦されている』と伝えることである。もはや神は彼らの罪と不法を思い出しはしない。『あなたに告げる。イエス・キリストによって、あなたがたは赦されている。』『赦しのあるところ、もはやいかなる犠牲も必要ない』『あなたがたに告げる。イエス・キリストによって、あなたがたは赦されている』。これが聖書の福音である」ということでした。

悔い改め。それが、ただ罪を赦していただくための行為であれば、この悔い改めは永遠に続く、罪と犠牲、罪の自覚と悔い改め、そして良い人間として生きていこうとする。そこからまた、罪の自覚へ・・・といった永遠に逃れることのできない循環に入れられたものとなってしまうということです。しかし聖書が教えていることは、むしろこの無限の悪循環を断ち切るために、イエス・キリストが来られたということです。もはや、私たちの罪は赦されているのです。

悔い改め。私たちはイエス・キリストによって、すでに赦された。そのうえでの、悔い改めとは、神様に目を向けて、このイエス・キリストによる赦しを頂くことなのです。自分で罪を赦されるために、良い行いをしなけば・・・という考えを断ち切り、神様が、私たちの罪を赦されたと信じること。そのように考えを変えていくこと、生き方を変えること、そして、神様に立ち帰ること。これが悔い改めです。これは、別の言い方をすれば、すでに赦されている者として、「神様の恵みを知る」「神様の愛に感謝する」ということでもあります。私たちは、神様に愛されて、赦されて、生かされているのです。私たちは、神様に愛されていること、神様の恵みを覚えているでしょうか。神様の与えてくださっている恵みを感謝して頂いていきたいと思うのです。

今年は、1月1日に能登半島地震が起きるということから始まりました。この地震の災害の復興は、なかなか進みませんでした。それこそ、私の友人からは4月の中旬になって、やっと水が出るようになったと連絡がありました。友人は水が出た時、一緒に、涙が出てきたそうです。「水が出ることで泣くことがあるとは思わなかった。当たり前のありがたさを身に染みて感じた」と言っていました。私たちは、自分がこの世に生きていることを当たり前だと思っていないでしょうか。蛇口をひねれば水が出るように・・・明日も当たり前のように目が覚める。今の健康状態が明日も続く。食べ物が食べたいと思ったら、買いにいけば、そこに食べ物がある。寝たいと思ったら、布団をひけばいい。この、今頂いている日常が、いつまでも続くと、そのように思っていないでしょうか。そのようなことを当たり前だと思っていないでしょうか。

ウクライナでの戦争はすでに2年以上続いています。また、イスラエルとハマスの争いも続いています。そのような争いの中で、多くの人が当たり前だと思っていた日常生活を奪われています。ニュースでは、家族を失った人が、「突然のことで何が何だかわからない」「なんで自分がここにいるのか。なぜ自分の家族だったのか。昨日までは普通に生活をしていたのに…」と言っている姿がありました。この言葉に、私自身、「なぜ、自分は今、ここで、こんなにぬくぬくと生きているのだろうか。自分ではなく、あの人があんなに苦しんでいるのだろうか・・・」と考えさせられたのです。皆さんは、なぜ、今、私たちはここに生きているのか。なぜ、自分には銃が向けられていないのか。なぜ自分には食べ物が与えられているのか。なぜ自分は、今、このように教会で礼拝を送ることができているのか。考えたことがあるでしょうか。

 悔い改めること。それは、この命を頂いていることを感謝することから始まるのだと思うのです。自分には、時間を与えられ、身体を与えられ、財産を与えられ、生きている。それは、神様の恵みによるものなのです。どれほど、私たちが努力をしても、命を創り出すことはできません。どれほどの財産をもっていたとしても、明日に命がなかったら、その財産は何の意味もなさないでしょう。そのような中で、私たちは平然と、すべては自分によるものだとして、自分のためだけに生きてしまっているのではないでしょうか。悔い改めること。それは、この「自分の力で生きている」「自分のためだけに生きていく」という思いから解放されること、そして、生かされていることに感謝することなのです。

 

3:  共に痛み、苦しまれている方に心を開く

 イエス様の嘆き。それは、ここでは、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人々が、そして私たちが、この神様の恵みを忘れてしまっていることを嘆いているのです。自分のためだけに生きること。私たち人間は、そこに喜びがあると思ってしまっているのです。そして、そのために努力し、生きていこうとしているのではないでしょうか。この思いのうちに生きる人間が作りだした社会が、争いのある社会、命を共に喜ぶことができない社会、お互いを傷つけ合う社会なのです。隣にいる人の幸せがうらやましい。それよりも自分の方が幸せになりたい。あの人より、もっとよい生活をしたい。もっと褒められて、もっと素敵だと思われたい。そのためには、誰かが傷ついても仕方がない。このような競争社会に差別が生まれ、喜ぶ人の下に、傷ついている人がいる。そして人間は、傷つく者ではなく、喜ぶ方になりたいとする。これが人間の生きる社会です。そしてこのような思いに人間は囚われてしまっているのです。

イエス様は、このような、人間に目を向け、このような社会に囚われて、苦しみ、疲れ、生きる気力、希望さえも失っていく、人間の姿に嘆き、悲しまれている。「なんとも悲しい存在なのか」。「なんとも虚しい生き方をしているのか」「神様があなたを愛しているのに・・・なぜその愛を受け取ろうとせず、自分だけで生きようとするのか」と。

イエス様は、このような社会に生きる人間を、外から傍観して「悔い改めなさい」と言われているのではなく、まず、この人間の作り出す社会の真っただ中に、自らが人間となられ、来られたのです。イエス様は、このコラジン、ベトサイダ、カファルナウムに来られ、そこで生きたのです。そして共に、嘆き、悲しみ、痛みを受けられたのです。そのうえで、「なぜ、赦されている罪にしがみつくのか」「なぜ、神様が愛していると言っているのに、その言葉に耳をふさぐのか」と嘆かれたのです。

イエス様は、私たちの人生に寄り添い、共に生きて下さっているのです。私たちは、自分の人生が「幸せ」だと思って生きているでしょうか。それは、何をもって「幸せ」だとしているでしょうか。または、「幸せ」になるために、何を求めているでしょうか。どのようになることが、皆さんの「幸せ」となるのでしょうか。イエス様の一番の嘆き。それは、人間が、神様を必要としていないことです。

この時、イエス様はコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人々に出会い、福音を示され、そこに神様の愛を語り続けたのです。しかし、人々は、その福音を受け入れなかったのです。イエス様が共に生きてくださること、イエス様が痛みを共に担ってくださることを喜ばなかった。むしろ、イエス様を邪魔者、自分たちの社会の常識に問題提起をするような、うっとうしい存在だと思い、イエス様を排除するようになっていたのです。

私たちはイエス様が隣に来てくださることを喜ぶことができるでしょうか。むしろ、イエス様が、私たちの隣にきてくださっていることを喜ばず、むしろうっとうしい、私は私のもので、私は、好き勝手に生きていきたいと思っているのではないでしょうか。そしてそこに幸せ、自由、希望があると信じているのではないでしょうか。イエス様は、このような私たちに対して、「悔い改めて欲しい」「心に神様の恵みを一緒に頂きましょう」「生かされていることを感謝しましょう」と語っておられるのです。

神様は、私たちを愛し、私たちの存在を喜び、命を注いでくださっているのです。私たちは、神様の恵みに心を開き、感謝の心を頂いていきたいと思います。今、このキリストの嘆き、そして、神様の恵みを知る時にこそ、私たちが悔い改めていきたいと思います。正しく生きるために、自分で自分を強く、正しい者とするのではなく、赦されて、愛されて、神様から頂いている命を、感謝し、喜んで、歩みだしたいと思います。どのような時にあっても、私たちの隣には、イエス・キリストがいてくださり、私たちを愛し、私たちと共に歩いてくださっているのです。私たちは今、このキリストの嘆きと願いを受けて、心を開いて、イエス・キリストの言葉を頂き、歩んでいきましょう。(笠井元)