1: イエスの嘆き
今日の箇所の小見出しは「悔い改めない町を叱る」となっています。ただ、この聖書の箇所を読み取る時にイエス様が悔い改めない町を叱責したという意味としてだけではなく、神様の恵みの広がりを見ていきたいと思います。
コラジン、ベトサイダ、カファルナウムという町は、イエス様が中心的に福音伝道をなされたガリラヤ湖北部沿岸の町々でした。イエス様はコラジン、ベトサイダ、カファルナウムと、それぞれの名前を挙げられました。それはそれぞれの町々に目を向けられていたこと、それだけではなく、その町にいる一人ひとりに目を向けておられたことを読み取ることが出来ます。そして、イエス様は、その一人ひとりが悔い改めない姿を見る中で嘆かれたのです。
2: 悔い改めること
悔い改めとは、神様にと目を向け、イエス・キリストによる赦しを頂くことです。それは神様の恵みを知る、神様の愛に感謝するということです。悔い改めることは命を頂いていることを感謝することから始まります。どれほど、私たちが努力をしても命を造り出すことはできません。そのような中で、私たちは平然とすべては自分によるものだとして、自分のためだけに生きてしまっています。悔い改めることは、自分の力で生きている、自分のためだけに生きていくという思いから解放されることです。
3: 共に痛み、苦しまれている方に心を開く
イエス様は、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人々、そして私たちが、この神様の恵みを忘れてしまっていることを嘆いているのです。私たちは自分のためだけに生きることに喜びがあると思っています。しかしその思いに生きる人間が作り出したのが、お互いを傷つけ合う社会です。イエス様は、このような人間の姿に嘆き、悲しまれているのです。イエス様はコラジン、ベトサイダ、カファルナウムに来られ、そこで共に痛みを受けられました。しかし、この町の人々は、イエス様が痛みを共に担ってくださることを喜ばず、むしろイエス様を排除しようとしたのです。
私たちは、神様の恵みに心を開き、感謝の心を頂いていきたいと思います。どのような時にあっても、私たちの隣にイエス・キリストがいてくださり、共に歩いていてくださっているのです。(笠井元)