1: 神学校週間を覚えて
今日から一週間、6月30日までは、神学校週間となります。バプテストには、西南学院大学神学部、九州バプテスト神学校、東京バプテスト神学校の三つの神学校があります。現在、西南学院大学の神学生は9名、九州バプテスト神学校の神学生は6名、東京バプテスト神学校は6名が在籍しています。私たちは、神様の御業を担う働き手として、特に学びを続けられている方々の生活、学び、信仰、が祝福されるように、また新しい働き手が与えられますように、お祈りしていきたいと思います。現在、私たちの教会には、教会から推薦している神学生がいません。また、神学生が研修に来ているわけでもありません。そういう意味で、神学校、そして神学生という存在が少し遠く感じているかもしれません。私たちは、だからこそより意識をもって、神学校で学ぶ方々のために、より一層強く祈っていきたいと思います。また、現在の神学校での学びは、ただ牧師をはじめとする教役者の養成だけではなく、合わせて、信徒の教育、教会として、神様から託された働きを共に担う共同体となっていくための学びの働きにも力を入れています。是非、皆さんも、教会に繋がる者として、神様に従い働くために、必要なことを神学校で学ぶことをも考えて頂きたいと思うのです。
現在は、バプテストだけでなく、どこの教派においても、牧師、そして牧師になることを決断した神学生が少なくなっていると聞いています。知り合いの牧師は、1人で5つの教会を牧会していると聞きました。この教役者の人材不足というのは、バプテストでも同じようになっています。特に西南学院大学の神学部は学生不足として危機的状況にあるとされています。多くの教会で、この問題のために祈られています。私たちも共に、新しく生徒が与えられますように祈っていきたいと思います。
2: イエスを指し示す
今日の箇所では、イエス様に派遣された72人の人々が帰ってきたことが記されています。この72人は、10章1節からの箇所において、イエス様に派遣された人々でした。1節では、「イエス様ご自身が行くつもりのすべての町や村に遣わされた」、とあります。72人は、これからイエス様が来られるところへと出かけていったのです。そのような意味では、この人々の役割は、自分たちだけで何かをするのではなく、その後に来られるイエス・キリストを指し示すことであったと考えられるのです。これは、この72人だけというよりも、今、この世において生きているすべてのキリスト者に与えられている役割ともいうことが出来るでしょう。キリストに出会い、神様の愛に触れた者に、神様が求めていることは、イエス・キリストになることではありません。そうではなく、私たちに求められていることは、イエス・キリストを指し示すことです。世界中の人々がイエス・キリストに出会うために、その準備をし、整えていくこと。それが私たちに与えられている仕事となります。
時々、牧師と信徒は違う。牧師は献身者だけれども、信徒はそうではないと言った言葉を聞くことがあります。私は、そうではないと思います。キリスト者は、キリストに出会い、キリストに召されバプテスマを受けた者です。そのすべての者が、献身者です。バプテスマを受ける時、「私の主はイエス・キリストです」と告白します。この告白をした者は、イエスを自らの主として生きることを決心したのです。そのすべての者が、キリストを中心に、キリストのために生きる決心をした者、つまり献身者となるのです。
プロテスタント教会には、「万人祭司」という考え方があります。私たちキリストに出会った者は、すべての者が「祭司」である。だれもが、神様と向き合い、他者のために祈り、隣にいる人々がキリストに出会うために、働き、祈るのです。そのうえで、私たちは、全ての者が、神様からそれぞれに、それぞれの賜物が与えられています。ローマの信徒への手紙ではこのようにあります。【というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。】(ローマ12:4-8)
私たちはそれぞれに賜物を頂いています。その賜物を用いて、私たちは、すべての者がイエス・キリストを指し示していくのです。それこそ、預言をする者は預言をし、奉仕をする者は奉仕をし、教える者は教え、勧める者は勧め、施しをする者は施し、指導する者は指導し、慈善を行う者は、慈善を行っていく。そして、それぞれの賜物をもって、イエス・キリストを指し示していく。これが、私たちに与えられている使命です。
3: 神に派遣され、神の許に帰る
72人は、イエス様に遣わされ、そして今日の箇所において、イエス様のもとに帰ってきたのです。主に遣わされた者なのだから、主のもとに帰ってくることは当然のことだと思います。しかし、私たちは、意外と、この当然のことを忘れてしまい、主に遣わされながらも、どこに帰ってよいのか忘れて、見失ってしまうことがあるのです。私たちは、神様に遣わされ、そして、神様の許に帰る者として生きています。私たちはこの世で生きる時、このことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。この世が教える生きる意味は、自分のために生きて、自分が満足するために働き、最後は、自分が自分として、自分らしく生きてきたかを見るように、と教えます。それこそ命の意味として「自分らしく生きたか」ということが、よく問われるのです。テレビドラマなどを見ていて、よくある結論として、本当の生きる意味として、何かのために生きていた者が、「自分らしく生きること」へと、生き方を変えていく。そのように生きることが大切だとして終わることが多くあります。
「自分らしく生きる」。それはそれで、もちろん大切なことかもしれません。ただこの「自分らしさ」の中心に、自分自身が置かれているならば、結果としては「自分のためだけに生きる」こととなっていくのだと思うのです。私たちは何のために生きているのでしょうか。また何のために生かされているのでしょうか。
聖書は私たちの生き方として、「自分のためだけに生きるように」とは教えてはいません。イエス・キリストが、私たちのために生きて、死に、そして新しい命を受け復活されました。このイエス・キリストに遣わされた者である、私たちは、神様のため、そして隣人のために生きることを教えられているのです。私たちは、自分で、自分の意思で、この世に生まれた者はいません。先日の研修で、講師の先生が、私たちは、自分の意思だけで生きているのではないことを、・・・「自分の意思で心臓を動かしている人はいないのです。それでも生まれた時からずっと、今も、心臓は動いています。夜は少し休もうと言って、止まっていることはないのです。あなたが寝ているときも、心臓は頑張って働いているのですよ。そして、その心臓は神様が造られたのです。あなたが造ろうと思って造ったのでも、動かそうと思って動かしているのではないのです。あなたは神様に造られて、生かされているのです」と言われていていました。
私たちは、神様に命を与えられ、この世で、今も生かされているのです。そして、神様は、私たちという存在を喜んでいてくださるのです。私たちは、自分が何かが出来るからといって、誇るのでもなければ、何もできないとして、自分を卑下することはないのです。私たちは神様に愛されている存在です。私たちがどのような状態であっても、神様の愛は溢れるほどに注がれているのです。だからこそ、「あなたがたは自分を愛するように・・・つまり、自分が神様に愛されていることを知り、愛されている喜びを持ち、そしてその愛をもって、隣人を自分のように愛しなさい」と言われているのです。私たちは、この神様に愛されて、遣わされて、この世に生きています。そして、いずれ私たちは神様の許に帰るのです。
ここに生きている意味ははっきりしています。私たちが命を持つのは、「自分のためだけ」ではなく、神様に派遣された者として、そしていずれ神様の許へ帰る者として、神様のために生きる。これが、私たちの生きる意味です。
私たちには、帰る場所があります。この帰る場所があるということは、とても恵まれていることでしょう。私の知り合いには、生まれた時から、父親も、母親も知らず、施設で育った人がいます。もちろん、「施設のみんなが兄弟のようで、みんなに大切にされて育ったことを、とても感謝している」と言っていました。ただ、それでも、どこかで、ふと寂しさを感じる時がある。自分には、皆にはあるはずの帰る場所が、自分にはないと感じる、と言っていました。自分の居場所がない。自分が帰るべき場所、そのような関係にいる人がいない。仲良しの一緒に育った兄弟のような人、施設の人、学校などで出会っていった友人。色々な人間関係もできたけれど、どこか、心の底では、満たされない、思いがあるそうです。この方にも言ったのですが、それは、実のところ誰もがそうなのではないでしょうか。父親がいても、母親がいても、家族がいても、その関係が、私たちを本当に満たすかといったらそうでもない。むしろそのような関係から逃げ出そうとしている人もいるのです。
私たちすべての人間には帰る場所があります。それは、神様の御許です。そして、それはこの世では、教会と言ってもいいと思います。教会は、この世において私たちが帰る場所です。教会で、私たちは神様に目を向けて、神様から頂いている恵みを、もう一度受けていくのです。教会で祈り、自分の重荷をイエス様に委ね、もう一度、新しくされて、この世に出ていくのです。それが教会、神様に繋がる場所、人間が帰ってくる場所なのです。私たちが教会を形成していくときに、そのような場所となるということを、頭に入れて、教会を造りあげていく必要があることを、覚えておきたいと思います。
4: あなたの御名において
72人は主の許に帰ってきて、このように言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(10:17)この言い方だと、どこか、この72人が、イエス様から「名前」を頂き、使いたいときに使う、とっておきの道具のようにも聞こえてくるのです。ただ、このイエス様の名前とは、そのように人間が使いたいときに使うような、人間が主体で用いるようなものではないのです。この者たちが、イエス様の名前を持ち運び、あちらこちらで使っては、悪霊を屈服させてきたということではないのです。そうではなく、このイエス・キリストの名前によって守られ、この名に支えられてきたということです。そのような意味では、この「お名前を使うと」という言葉は、「あなたの御名において」というように訳した方がよいのではないかとも言われています。私たちは、このイエス・キリストという名前を使って、私たちが主体になって生きるのではなく、このイエス・キリストという名前、そして、このイエス・キリストご自身に支えられ、生かされているのです。
今日から、一週間、神学校週間となります。先ほど、誰もが献身者であり、誰もが、キリストに仕える者であると言いました。そのうえで、私たちは、この神学校で学ぶ人々のために祈るという役割があると言うことができるでしょう。何度か皆さんにも言ったことがありますが、私が最初に行った神学校では、一年目は「人間に躓き」、二年目は「神様に躓き」、三年目は「神学に躓く」と言われていました。そして「そのように、躓いた時、隣にイエス様がいてくださることを思い出してください」と言われていました。入学の時にそのように言われていてもよくわかりませんでしたが・・・学びを続けていく中で、実際に躓き、神学校を辞めてしまった人、神様を信じることができなくなってしまった人もいました。
私自身のことで言えば・・・神様のために働く決心をした時、「頑張るぞ」と気持ちをもって、奉仕をし、学びました。その中で、私自身、学校で言われていた通りに、「人間に躓き」「神様に躓き」「神学に躓き」、実際に神様を信じることが出来なくなってしまったこともありました。それこそ、隣にいて、私たちを見てくださり、私たちを支えていてくださっているイエス・キリストのことを忘れてしまっていたのです。そのような中で私に、隣にイエス様がいることを教えてくださり、またそのことを実感させてくださったのは、教会の方の祈りによるものでした。私は、この教会の方々の祈りによって、弱い自分を受け入れ、それでも愛してくださっているイエス・キリストにもう一度出会っていくことができたのです。私自身として感じるのは、神様に目を向け、信仰について、御言葉について学ぶ者にとって必要なのは、まさに教会の祈りです。そして、自分の帰る場所としての教会、祈りの関係、祈りのコミュニティです。
神の家族として、いつも祈ってくださっている教会の方々がいる。そして、迷い、悩み、苦しんだときに、どのような状態でも、受け入れてくださり、一緒に祈ることが許されている場所がある。それほどの励まし、恵みはないと思います。
5: 喜んで帰ってくる 本当に喜ぶこと
今日の箇所において、72人は喜んで帰ってきました。この時、この者たちは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(17)と言いました。これに対して、イエス様は18節からこのように言われました。【イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」】(ルカ10:18-20)
イエス様は「悪霊があなたがたに服従することは、喜ぶことではない。むしろ、あなたがたの名前が天に記されていること、つまり、神の子とされ、神様にいつも覚えられており、愛されていること、このことを喜びなさい」と教えて下さったのです。神様に派遣され、その御許に帰ってくる。この生きる道は、喜びの道です。それは何かが出来るからでも、誰からも害を受けないからでもないのです。それこそ、人間の目、社会の目で見れば失敗のような日々だったとしても、私たちは、喜んで生きる者とされているのです。それは天に、その名が記されているから。つまり、神様が覚えて、愛していてくださるからです。これ以上の喜びはないのでしょう。私たちは、だからこそ、また出ていくのです。何があろうとも、どれほどの困難があろうとも、私たちは、神様に遣わされ、出て行き、そして帰って来る。そのようにして生きるのです。ここに、喜んで生きる道があるのです。私たちは、この喜びをいつも覚えて、共に、祈りつつ、生かされていきましょう。そして、神様を証し、賛美し、そして祈り合い、歩んで行きましょう。 (笠井元)