1: 最初の契約における礼拝の規定
8章13節では「最初の契約は古びた」と言い、9章15節では「キリストは新しい契約の仲介者」と言います。ここではこの「最初の契約」と「新しい契約」について語られています。その中でも、最初の契約と新しい契約の「礼拝」における対比を見ることができるのです。
最初の契約は、エジプトを脱出した時に与えられたシナイ契約のことです。1節に【さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。】(9:1)とあるように、最初の契約における、礼拝の規定と聖所について語られています。ただ、5節で【こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。】(9:5)とあるように、その内容の細部を見るのではなく、この規定と聖所があったこと、そして、様々な祭具があったとことを教えます。また6、7節では、第一の幕屋に祭司が、そして第二の幕屋「至聖所」には年に一度大祭司だけが入り礼拝をしたという祭儀行為について記されています。(9:6-7)
イスラエルにおいて、聖所は、第一の幕屋と、第二の幕屋に分けられ、第一の幕屋で祭司によって礼拝がされ、第二の幕屋「至聖所」において、年に一度、大祭司が自分自身、そしてイスラエルの民の贖罪のために血を携えて行き、その血をふりかけるという儀式によって、罪の赦しを得たのでした。
2: この世の礼拝祭具、祭儀行為によって良心を完全にすることはできない
【このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。】(9:8)8節の「第一の幕屋」は、6節、7節の「第一の幕屋」「第二の幕屋」どちらのことも含めた「この世の幕屋」を意味します。第一の幕屋、この世の幕屋、最初の契約に規定された地上の聖所における礼拝では、神様への道は開かれないと教えます。
あらゆる宗教において、礼拝、祈りなど祭儀行為を行う時に、聖なる道具、祭具を用いることがなされ、また、様々な儀式がなされます。
祭具にはそれぞれ意味があり、祭儀行為をすることで神様と近づいたり、関係を持つことができると考えるのです。ただ9節に【この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。】(9:9)とあるように、このような祭具、祭儀行為によっての礼拝は、その礼拝する者の良心を完全にすることはできない。この礼拝によって、神様と人間との関係は完全なものとはならないとするのです。
3: キリストによる礼拝
11節からイエス・キリストを通しての新しい契約の礼拝について語られます。(9:11-14)ここでは、あらゆる道具でも儀式でもなく、ただ一度イエス・キリストがご自身の血による永遠の贖いを成し遂げられたことによって、私たちは礼拝する者とされたと教えます。私たちが礼拝することは、神様の御業によって許されて行うことなのです。礼拝の主体は神様にあり、私たちは、その神様の恵みに対する応答として礼拝を行います。
私たちの教会では、二つの礼典としてバプテスマと主の晩餐式を行っています。バプテスマと主の晩餐式は、その行為をもって救いを得るのではなく、すでに与えられている神様の恵みに対する応答と確認の行為なのです。
4: 礼拝 神様に繋がって生きる
最後に、礼拝と生活について考えてみたいと思います。
礼拝は、そこから日々の生活に、出て、生きていくことへと導く行為です。私たちは、日曜日に教会に集まり、そこからまた出て行き、新しい一週間を生きていきます。イエス・キリストは大祭司として、神と人とを繋いでくださいました。私たちが生きる社会では、この関係を切り離す働きが多くあります。この世は、私たちを、自分にとって利益がある道へと導きます。私たちは、このような社会に生きています。
私たちが礼拝をするということは、この世において、イエス・キリストによって神様に繋がれた者として生きるためのものです。キリストによる恵み、神様との関係に生き続けるための行為、それが礼拝です。私たちは、キリストによる神様の恵みを頂くために礼拝に集まり、神様との関係に生きていきたいと思います。(笠井元)