1: ソドムとゴモラ 罪を現す
今日の箇所は、罪にまみれていたソドムとゴモラを神様の使いが見にきた場面であり、アブラハムが「主」、つまり神様に、ソドムとゴモラを滅ぼすのではなく、赦されるようにと願い、祈る場面となります。ソドムについては、今日の箇所、創世記18章よりも少し前になる、創世記の13章13節において、【13:13 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。】(創世記13:13)と記されており、ソドムは邪悪で、神様に対して多くの罪を犯していたとされる町なのです。今日の箇所ではソドムとゴモラとなっていますが、ゴモラもソドムとそれほど変わらない罪の中にいたのでしょう。このソドムとゴモラの罪がどのようなものであったのかを考える時に、よく考えられるのは、性的行為に限定されたものとして考えられることが多くなっています。しかし、そのように罪を限定することで、「ソドムとゴモラの人々が特別、邪悪であった」「私とソドムとゴモラの人々は違う」とし、この今日の話は、自分とは全く関係のない話、昔の罪人のお話として読んでしまうことがあります。キリスト教においては、ソドムとゴモラだけではありません、すべての人間が罪を持っているとします。ただ、だから存在価値がないとするのではないのです。むしろだからこそ、愛されていること、生かされていることを喜びましょうということです。
罪とは、すべての人間が持つという意味で、すべての人間を同じところに立たせます。それこそ、どれほどのお金持ちでも、今日の食べ物もない者であったとしても、誰もが同じ立場にあるのです。罪ある者。言い方を変えると、神様の愛を必ず必要とする者であるということです。この「罪」のことを、神様から離れてしまう「弱さ」と言ってもいいかもしれません。人間は、神様の御心を求め続けているか、神様の願いに耳を傾け続けているか、とすれば、そうではないでしょう。人間は、完全ではありません。不完全であり、破れがあり、弱さを持つ者なのです。そのような意味で、ソドムとゴモラの人々が罪人であるということが、私たちと関係ない、私たちとは違うと考えるのではなく、むしろ、すべての人間が弱い者であり、その姿をこのソドムとゴモラという二つの町が現わしている。人間の罪、弱さ、神様のことを求めるのではなく、神様から離れ、自分のためだけに生きる者となっている。人間とはそのような者なのです。
2: アブラハムの執り成し
アブラハムは、このソドムとゴモラ、つまり人間が持つ、罪が赦されるようにと、執り成し、祈ったのです。アブラハムは、最初は50人の正しい人がいれば、滅ぼすのではなく、赦しを与えてくださいとし、そこから、45人、40人、そして30人、20人、最後に10人、正しい人がいれば滅ぼさないで、赦して下さいと願い求めるのです。このアブラハムの祈りには、どのような意味があるのでしょうか。このお話は、50人から始まって、最後は10人でも正しい人がいれば・・・としていく、交渉術を学ぶためのお話ではないのです。少しでもこのソドムとゴモラという町が滅ぼされないために、希望を大きくするために、何とか正しい人の人数を少なくしていった、アブラハムの努力の話でしょうか。 もちろん一つの読み方としては、そのように読み取ることができるのです。
ただ、そのうえで、今日は、この時に、アブラハムの執り成しの祈りは、罪の贖いという、救いの考え方を根本から変えられていくものとして見ていきたいと思うのです。ここで神様は、ソドムとゴモラは邪悪で、非常に重い罪の中にいる。つまり神様からは完全に離れてしまっているとして、そのような者たちの住む町を滅ぼすことを考えられていたのです。それに対して、アブラハムは最初は50人でも正しい人がいれば赦して下さいと願うのです。当時、13章を読む限り、ソドムはとても繁栄していた町であったと考えられます。ソドムとゴモラには、大変、多くの人々が住んでいたと考えられます。この多くの人々が住むソドムとゴモラに、多数の邪悪の者がいたのです。ここでのアブラハムの祈りは、そのような中で、この多数の邪悪の者たちの存在に目を向けるのではなく、少数の正しい人に目を向けることを願っているのです。
このことを私たちの心の内として考えるならば、・・・私たちの心の内がほとんど悪に満ちていたとしても、その中に、ひとかけらの正しい心があるとしたときに、どちらに目を向けるのかということにもつながることなのです。この時、アブラハムは、どれほどの悪に満ちていたとしても、どれほど邪悪な人々が集まっていたとしても、その大多数に目を向けるのではなく、ひとかけらの正しい心、少数の神様を求める人々に目を向けることを願って祈っているのです。これがアブラハムの執り成しの祈りです。アブラハムは、神様に、この小さな正義、ほんのひとかけらの正しさに目を向けることを願ったのでした。
3: イエスによって、ひとかけらの正しさを得た
ただ、この後の聖書の話を見ていくと、結果、このソドムとゴモラは滅ぼされていったのです。たった10人の正しい人もいなかったということでしょうか。アブラハムがもうちょっと頑張って、10人から5人、いや1人まで・・・と祈っていればよかったのに・・・と、思ったこともあります。ただ、この結果は、ただ人数がどうこうという問題ではないのだと思うのです。ここでは、ただ人間が「人間だけ」「自分は自分だけのもの」と考えている限り、そこにはひとかけらの正しさもないことを教えているのです。
聖書では、「この世」「この世界」という言葉を使って、「悪」を表すことがあります。この世、この社会、そしてその社会を作っている私たち人間一人ひとりの存在に「ひとかけらの正しさ」があるのでしょうか。アブラハムは、人間に小さな正しさがあることを信じて祈ったのだと思うのです。 私自身、少なくともひとかけらの正しさくらいは、人間にもあるだろうと思ったのです。
ただ、しかし、その小さな正しさは、あくまでも人間の目線によるものです。私たちが見ている正しさは、何を基準としているでしょうか。それこそ、良い行いをすること、誰かのために働いたり、この社会のために働くことなどを、「これは正しいだろう」と思っているのではないでしょうか。もちろん、人間の努力、誰かのために対する思いやり、親切、共に生きること、それらはとても大切なことで、これらを止めてしまいましょうと言っているのではないのです。ただ、神様の正しさ、神様の義は、私たちの行いによって、たどり着くものではないのです。私たちがどれほど、自分で正しいと思うことを重ねても、神様の正義にたどり着くことはないのです。これが人間と神様の決定的な断絶です。私たちがどれほど努力をしても、良い行いをしても、良い心を持ったとしても、その行為によって、救いを得ることができるということにはならないのです。それこそ、人間中心の中には、たったひとかけらの正しさにもならないということです。それが人間です。人間は、自分では正しい者となることはできない。何をしても、どれだけ良い行いを積み重ねても、それが救いになることはないということです。
それこそ、どれほどの良い人でも、どれほどの悪人でも、お金持ちでも、貧乏でも、変わることはないのです。人間の目線による「正しさ」、それは神様の目線からすると、ひとかけらの正しさにもならなかったということです。
そして、だからこそ、神様は、そこに絶対的な正しさである方、イエス・キリストを、送ってくださったのです。神様は、ソドムとゴモラを滅ぼされました。この裁きを、神様は、一人の正しい人、神の御子であり、また人間となられた方、イエス・キリストへと向けられたのです。これは、救いは神様にあるということ。決して揺るぐことのない神様の救いの御業が、人間に与えられているということを意味しています。正しい人はいない。それは、神様の完全なる義と愛を持つ者はいないということです。しかし、だから神様は、この世、私たち人間を滅ぼすのではなく、この世に代わりに、イエス・キリストの命を取り上げることによって、私たち人間に救いを与えてくださったのです。神様は人間を愛する決心をされました。そしてその行為として、本当に完全に正しい人イエス・キリストを滅ぼすことで、人間に、正しさを与えてくださった。これが神様の愛、人間を大切に思う思いなのです。
4: お互いの内にイエス・キリストを見る
神様は、このイエス・キリストという正しい人、神様の御子を送ることによって、この世に、そして私たち一人ひとりに、正しさを送ってくださったのです。たった一人の正しさ、たった一つの完全なる愛。しかし、その愛が、人間に注がれることによって、人間の心は変えられるものとされたのです。私たちは、お互いを見る時に、どのような角度、価値観で、お互いを見ているでしょうか。お互いの良さ、良いところを見て、その存在を肯定していくこともあれば、お互いの弱さ、不完全さを見て、その存在を否定することがあるでしょう。それは自分自身に向けても同じだと思います。皆さんは、まず自分を愛することが出来ているでしょうか。自分という存在を喜んでいるでしょうか。どのような理由で、自分の存在を喜び、どのような理由で、自分の存在を否定するのでしょうか。
この社会は、出来る人を求めます。そして、何もできない人を、この世に必要のない者として、その存在自体を否定していきます。そして、私たちは、このような社会に生きる中で、自分もそのような価値観を持ってしまう者となっていくのです。神様は、私たちを愛して、イエス・キリストをもって、私たちに救いを与えてくださったのです。しかし、周りを見渡すと、私たちは、お互いを滅ぼそうとして生きてしまっていることが多々あるのではないでしょうか。それこそ、相手の弱さを見つけては、その弱さ、その失敗を指摘し合い、お互いを傷つけ、その存在を否定していくのです。この考え、この価値観の結果が、今のこの世界です。今、この世界では、争いが拡がっています。多くの場所で、人間同士が傷つけあい、命を奪い合い、その存在を否定しているのです。私たちはこの世界に何を見るのでしょうか。この世に平和が来ることを願いたいと思います。
このような私たちを神様は、そのままの存在で愛してくださっていることを、まず覚えたいと思うのです。神様は、世界を造り、人間を造り、その存在を「良し」とされたのです。私たちが何かが出来るからではありません。ただそこに存在していることを神様は喜ばれているのです。その存在が素晴らしいと言ってくださるのです。だからこそ、私たちのところにイエス・キリストを送ってくださったのです。私たちは生きているのではなく、神様によって生かされているのです。神様が意志を持ち、私たちに命を与えて下さっている。その存在を喜んでくださっているのです。
私たちは生かされている。マザー・テレサは、誰であっても、その人の中におられるイエス様を見て、その人の存在を喜んでいたと聞いています。私たちのうちに、イエス・キリストはきてくださったのです。私たち自身に正しさ、愛がなかったとしても、そこに完全なる方、義であり、愛であるイエス・キリストが来て下さっているのです。このイエス・キリストの存在が、私たちを生かすのです。私たちが、お互いを見る時に、このお互いの存在のうちにイエス・キリストがおられるということを見ていきたいと思うのです。私たちの中には完全なる方が来て下さっている。神様はもはや私たちを滅ぼすことはありません。その存在を愛しておられる。私たちも、その神様に愛されて、命を与えられ、今も養われている、お互いの存在を認める者とされていきたいと思います。 私たちが心から、お互いの存在を認め合うためには、「何かが出来るから」ではないのです。その者のうちにイエス・キリストがおられる。その者が、神様に愛されている存在だから、私たちはお互いの存在を喜ぶ者とされていくのです。
5: 執り成す者として生きる
今日の箇所において、アブラハムは、ソドムとゴモラのために執り成しの祈りをしました。なぜでしょうか。アブラハムにとって、ソドムとゴモラが特別な存在だったわけでもありません。そこに甥のロトがいたというのはあるかもしれませんが、それだけの理由でしょうか。邪悪で罪人とされるソドムとゴモラです。アブラハムは、なぜ赦してくださいと祈ったのでしょうか。それは、アブラハム自身が、神様を信じたからとしか言いようがないのです。アブラハムは神様を信じたのです。そして、その信仰を神様は義と認めたのです。【15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。】(創世記15:6)これがアブラハムの生きた道でした。アブラハムも完全に正しいわけではないのです。それでもアブラハムは、ソドムとゴモラのために執り成し、祈る者とされたのです。私たちはどのように生きることができるでしょうか。
キリスト教では、「そのままの姿でよい」とよく言われます。確かに、先ほど、私も、「そのままで愛されている」と言いました。神様は、私たちが何かが出来る、出来ないということに関係なく、愛してくださっています。どれほど、自分では、無価値な者と感じていたとしても、この社会では、必要ないとされるような者でも、神様は、そのような私たちを愛して、そのままで、私たちを受け止めて下さっているのです。では、その神様の愛を受けた、私たちは、どのように生きるのでしょうか。このソドムとゴモラの話から、人間の邪悪さ、罪の部分を見ることができます。私たち人間が「そのままの姿」である時、その姿は「罪」ある者、「自分勝手」であり、「自己中心的」なのです。それでも神様は愛してくださっています。
ただ、だからこそ、私たちは、そこからどのように生きるのか、考えていきたいと思うのです。 神様の愛を知った者として、どのように生きるか、真剣に考えていきたいと思います。神様は、自分を愛して、そして自分を愛するように、隣人を愛するようにと、教えるのです。何もできなくても、生きている意味がある。だから隣人の存在を喜ぶ者となる。隣人のために、祈る者とされる。隣人が救いを受けるために祈りたい。それこそ執り成し祈る者と変えられて行きたいと思うのです。 これが、私たちの生きる道なのではないでしょうか。「そのままの姿で愛している」と言われるものとして、そこから変えられていきたいと思うのです。隣人の中にあるイエス・キリストを見ていきたいと思います。何かが出来る、出来ないではないのです。そこにあるということ、そこに存在しているという意味を頂きましょう。そして、お互いに変えられていきましょう。(笠井元)