1: ソドムとゴモラ 罪を現す
ソドムは邪悪で多くの罪を犯していたとされる町です。キリスト教ではソドムとゴモラだけではなく、すべての人間が罪を持っているとします。ただ、だからこそ、私たちには神様の愛が必要なのです。ソドムとゴモラの人々が罪人であるということを通して、同じようにすべての人間が罪人であることを現わしています。
2: アブラハムの執り成し
アブラハムはソドムとゴモラのために執り成し祈ったのです。最初は50人の正しい人がいれば滅ぼすのではなく赦しを与えてくださいとし、そこから、45人、40人、そして30人、20人、最後に10人正しい人がいれば滅ぼさないで下さいと願い求めるのです。このアブラハムの祈りは、多数の邪悪の者たちの存在に目を向けるのではなく、少数の正しい人に目を向けることを願っているのです。私たちの心の内として考えるならば、私たちの心の内がほとんど悪に満ちていたとしても、その中に、ひとかけらの正しい心があるとしたときに、どちらに目を向けるのかということです。アブラハムは、神様にほんのひとかけらの正しさに目を向けることを願ったのでした。
3: イエスによって、ひとかけらの正しさを得た
ソドムとゴモラは滅ぼされていきます。人間にはひとかけらの正しさもないことを教えます。神様の正しさ、義は、私たちの行いによってたどり着くものではないのです。人間と神様には決定的な断絶があるのです。私たちがどれほど努力をしても、その行為によって救いを得ることはできないのです。だからこそ、神様は絶対的な正しさである方イエス・キリストを送ってくださったのです。これは、決して揺るぐことのない神様の救いの御業が、人間に与えられているということを意味します。神様は人間を愛する決心をされ、人間に正しさを与えてくださったのです。
4: お互いの内にイエス・キリストを見る
神様は、私たち一人ひとりに、一人の正しさ、一つの完全なる愛を送ってくださったのです。皆さんは、自分を愛することが出来ているでしょうか。神様は、私たちをそのままで愛してくださっています。私たちのうちにイエス・キリストは来て下さったのです。私たちが、お互いを見る時に、お互いのうちにおられるイエス・キリストを見ていきましょう。
5: 執り成す者として生きる
アブラハムは、ソドムとゴモラのために執り成しの祈りをしました。これがアブラハムの生きた道でした。私たちはどのように生きることができるでしょうか。神様の愛を知った者として、どのように生きるか考えていきましょう。神様は、自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛するようにと教えます。隣人の存在を喜ぶ者となる。隣人のために祈る者とされる。執り成し祈る者と変えられて行きたいと思います。これが、私たちの生きる道なのではないでしょうか。(笠井元)