1: イエスの喜び
イエス様は、弟子たちの名が、天に書き記されているということを喜ばれた。幼子のような者、そのような無学で無力な者の名が、天に書き記されていることを喜ばれたのです。
イエス様ご自身の歩みは、まさに弱い者、罪あるとされ、社会での存在を認められないような者と共に歩んだ人生でした。重荷を共に背負い歩んでいくことは、簡単なことではありません。だからこそ痛みを共に分かち合ってきた、幼子のように無力な者である弟子たちが、神様に覚えられていることを心から喜んだのです。イエス・キリストは、皆さん一人一人の今持っている重荷を共に担い、祈ってくださっており、その救いを自分のこととして喜んでくださるのです。
2: 知恵と力を求め続けている人間
この世は「無力」であることを喜びません。「知恵あること」を求め、喜び、誇りとします。社会は、誰かと誰かを比べ、他者よりも賢く、知恵ある者、力ある者となることを求めます。この考えは、イエス様の一番近くにいた弟子たちも同様でした。ルカによる福音書の22章で弟子たちは、「自分たちのうちでだれが一番偉いのか」ということを議論していました。これがイエス様に目を向けない、人間の姿なのです。私たちの心の中には、誰かと自分を比べて、自分の方が優れていると思いたい、認められたいという欲求がふつふつと生まれてきます。この心の内にある欲望から私たちを自由にするのが、神様の愛なのです。
3: 神の権威
弟子たちは「天に名が書き記されていること」と同時に、「神の権威」を見たのです。この神様の権威が、この世の秩序を乱し、生きる意味を見失わせ、希望を忘れさせるものから人間を解放するのです。神様は、ただ、私たちの存在を受け入れてくださるだけではなく、その声に耳を傾けてくださっています。私たちは、神様に祈ることが許されています。天に名が書き記されているということは、神が繋がって、その声に耳を傾けて下さっていることを意味します。イエス・キリストは私たちを無条件に愛してくださるのです。
4: 私たちは何を見て、何を聞くのか
イエス様は弟子たちに、神の権威、神の正しさと神の愛、本当の喜びを示してくださったのです。弟子たちは、多くの預言者、王たちが見たいと願い、聞きたいと願ってきたものを、見て、聞く者とされたのです。私たちは今、何を見て、何を聞いていくのか考えさせられます。私たちは自分の弱さをどのように見るのでしょうか。この弱さを神の栄光とするのか、それとも自己実現のために必要のないものとするのでしょうか。私たちは、自分が何のために、力、知恵を得て、また失っていくのかを考えていきたいと思います。(笠井元)