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2024.7.7 「あなたは無条件に愛されている」(全文) ルカによる福音書10:21-24

1:  イエスの喜び

 今日の箇所では、イエス様が、聖霊によって喜びあふれた姿があります。イエス様は何を喜ばれたのでしょうか。最初に「そのとき」とあるので、その前からの続きであることは確かです。この前の箇所では、イエス様が派遣した72人の人々が帰ってきて、イエス様に、【「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」】(10:17)と言いました。この言葉に対して、イエス様は、このように言われます。少し省略しますが、【10:20 「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」】(ルカ10:20)イエス様は、弟子たちの名が、天に書き記されているということを喜ばれたのです。イエス様は、弟子たちの事を、知恵があるわけでもなく、賢いわけでもない、「幼子のような者」として、そのような無学で無力な者が、天に、その名が書き記されていることを喜んだのです。イエス様の喜びは、このように、弱き者が神様に繋げられていることにありました。

イエス様ご自身の歩みは、まさに弱い者、罪あるとされ、社会での存在を認められないような者と共に歩んだ人生であったのです。完全なる神の子であり、また完全なる人の子でもあるイエス様は、人として、苦しみ、痛みの中にある者たちと共に歩まれました。その道は、一言で、「イエス様は良い人だった」ということでは言い切れない、厳しい現実と痛みを伴う歩みだったのでしょう。

重荷を共に背負い歩んでいくことは、簡単なことではありません。「イエス様なんだから・・・」と言って、私たちは、このイエス様の辛い現実、それでも他者と共に生きた愛を、軽く見てしまっていることがあるかもしれません。私は、高校生の頃に、当時の教会で、友人の話を聞いていたことがありましたが、思ったよりも深刻な話で、どう答えるべきか、とても悩みつつ、やりとりをしたことがありました。その後、牧師のお連れ合いの方に、「誰かの相談を聞くことは大変なことなのですね」と言うと、お連れ合いの方は、「あなたが疲れているということは、その方の重荷をあなたも背負うことができたということだと思いますよ。これが共に重荷を担うということです。」と教えられたことがありました。

イエス様は、隣人に寄り添い、共に生きる道を歩き続けたのでした。ただ、神の国を宣べ伝えるだけではなく、イエス様は、人間の痛みに寄り添って生きて下さったのです。だからこそでしょう。痛みを共に分かち合ってきた、幼子のように無力な者である弟子たちが、天に繋げられていること、その名が神様に覚えられていることを、心から喜ばれたのです。この恵みは、変わることのない神様の愛です。神様は、無力な者を愛しておられる。これこそ神様の御心であると確信を得る中で、イエス様は喜ばれた。イエス・キリストは、皆さん一人一人の今持っている重荷を共に担い、祈ってくださっており、その救いを知る時に、まさに自分のことのように、喜んでくださる方なのです。私たちは、このイエス様に支えられて、祈られて、生きているのです。

 

2:   知恵と力を求め続けている人間

それに対して、考えさせられるのは、イエス様がこれほど喜んでくださっていることを、私たち自身は喜んでいるのかということです。この世は、「無力」であること「知恵のない者」とされることを喜びはしません。むしろ「知恵ある者」「賢い者」となることを求めています。「知恵あること」を求め、喜び、誇りとする。そして「知恵のないこと」を恥とし、「力のないこと」を、欠点、弱さとして、悲しむのです。これが、この世の考え方です。実際、皆さんも、「無学で無力であること」よりも、「賢く、力あること」を求めているのではないでしょうか。学ぶこと、知恵を得ること、努力することはとても大切なことです。経済的に豊かになることも、重要なことです。私たちは、それぞれに神様から頂いている、賜物を最大限に活用して、生きることが望まれています。私たちは、努力するべきなのです。頂いている賜物を存分に生かしていきたい。しっかり生きていく。これは、神様に造られて、神様のために生きていく、私たちの使命です。

ただ、ここで間違えてはいけないのは、これらは「神様に仕えるため」または、「隣人に仕えるため」です。それこそ、隣人を助け、支えたいと思うならば、知恵も力も必要です。私たちは、頂いている賜物を、できる限り活かして、共に喜んでいきたいと思うのです。私たちの持つ、知恵、力、経済力は、誰かと比べて誇るため、または自己実現、自己満足のために「賢く、力ある者となるのではない」のです。すべては「神様の栄光のため」です。しかし、この社会は違います。誰かと誰かを比べ、他者よりも賢く、知恵ある者、力ある者となることを求めているのです。この考えは、イエス様の一番近くにいた弟子たちも同様でした。ルカによる福音書の22章では、いわゆる最後の晩餐とされる、イエス様が十字架につけられる前の日の食事の時に、その最後の晩餐の後、弟子たちは、「自分たちのうちでだれが一番偉いのか」ということを議論していました。苦しむ人に寄り添って生きてきたイエス様を、一番近くで見ていた弟子たちです。天にその名が書き記されている者たちです。そのような弟子たちが、イエス様の死の直前に、「誰が偉いのか・・・」と話し合っていたのです。今日の箇所でイエス様が心から喜ばれているのですから、このような出来事に、イエス様は心から痛みを持たれ、悲しまれたのだと見ることができるのです。これがイエス様に目を向けない、人間の姿なのです。弟子たちは、イエス様に従いながらも、イエス様の心を知ることもなく、イエス様から離れて、「自分中心」「自己実現」「自分の欲望を満たすため」に生きていたのです。

 

 

私たちも、自分と他者を比べて、どちらがより優れているか、またはどちらが劣っているのかということばかりを気にしてしまいます。以前、コラムにも記載しましたが、5月に幼稚園の特別伝道礼拝を持ちましたが、その時は、西南学院バプテスト教会の牧師である、西脇慎一先生を講師として迎えることができました。西脇先生は、説教の中で、自分が一卵性双生児の兄であり、いつも弟と比べられて育ったことから、自分には強い劣等感がいつもあったことを語られ、そのような中で、神様にとっては、それぞれが違いを持つ者で、それぞれが個性を持ち、その存在を、神様が喜んでくださっているということを教えてくださったのです。私たちの心の中には、誰かと自分を比べて、自分の方が優れていると思いたい、認められたいという欲求がふつふつと生まれてきます。この心の内にある、欲望から私たちを自由にするのが、神様の愛なのです。「私」という存在を、そのままの姿で認めて下さる方、愛して、喜んでくださる方、それが神様です。

 

3:   神の権威

この時、イエス様が言われたなかに「これらのことを、知恵ある者や賢い者には隠した」(21)とありますが、ここで言われている「これらのこと」とは、何のことだったのでしょうか。最初に言いましたように一つには「天にその名が書き記されていること」でしょう。そしてもう一つには、イエス様は控えるようにとしましたが、弟子たちが喜んだ「悪霊さえも屈服したこと」「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」として読むことができるのです。弟子たちは、知恵ある者でも、賢い者でもありませんでした。しかし、「天に名が書き記されていること」と同時に、「神の権威」を見たのです。この神様の権威が、サタンとされる存在、この世の秩序を乱し、生きる意味を見失わせ、希望を忘れさせる存在に囚われてしまっている人間を解放するのです。私たちは、自分の弱さを知ることから、少しでも力ある者となるために、知恵を求め、力を求めて生きています。しかし、この世でのそのような争いは、神様からすれば、どんぐりの背比べのような者であり、すべての人間はどこまでいっても弱さを持っている者でしかないのです。そのような人間を、権威ある方である神様が、「良し」としてくださった。そして、「天に、その名が記されている」とあるように、この私たち一人ひとりのことを神様は覚えていてくださるのです。つまり、私たちの名を覚え、私たちの存在を肯定し、そして私たちの祈りに耳を傾けて下さっているのです。

神様は、ただ、私たちの存在を受け入れてくださるだけではなく、その声に耳を傾けてくださっています。私たちは、神様に祈ることが許されています。それこそ、どれほど小さい者であっても、その祈りを神様は聞いていてくださるのです。天に名が書き記されているということは、神が繋がって、その声に耳を傾けて下さっている、このことを意味するのでもあります。私たちは、どのような時にあっても、一人ではありません。どれほど、孤独を覚える時にあっても、神様が私たちのことを見ていてくださるのです。このことを覚えていきたいと思うのです。

私たちは一人ではないのです。この世には、様々な関係があります。ただ、無条件にその存在を受け入れて下さる方というのは、ほとんどありません。お金、権力、その他、色々なものを持っているから、何かが出来るからといって、繋がっている関係がほとんどでしょう。そのような私たち人間を、ただ無条件に愛して、決して離れることのない方、それが私たちの主イエス・キリストなのです。神様は、何があってもなくても、私たちに自分から手を差し伸べて下さっている。そこに、何か条件はないのです。

 

4:   私たちは何を見、何を聞くのか

イエス様は弟子たちに、神の権威、神の正しさと神の愛、本当の喜びを示してくださったのです。弟子たちは、多くの預言者、王たちが見たいと願い、聞きたいと願ってきたものを、見て、聞く者とされたのです。それこそ、幼子のような無力な弟子たちに、神様はイエス・キリストの愛を示されたのです。私たちは今、何を見て、何を聞いていくのか、考えさせられるのです。

私たちは自分の弱さをどのように見るのでしょうか。この弱さを神の栄光とするのか、それとも自分のしたいこと、自己実現をするため、自分の栄光を得るために「必要のないもの」むしろ「なければよかった」と思うものとするのでしょうか。

先週、教会学校で学びましたが、パウロは自分に与えられたとげ、弱さを「誇り」としたのです。

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。】(Ⅱコリント12:7-10

パウロはこの「とげ」を喜んで受け入れたのではなく、離れ去らせて欲しいと願ったのです。そのようなパウロに神様が【わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ】(Ⅱコリント12:9)と教えられたのです。この言葉を聞いたパウロは、この言葉をサタンの言葉として反発することもできたでしょう。ただ、パウロはこの言葉を神様の言葉として受け入れたのです。これがパウロの信仰でしょう。私たちは、それぞれに、力を得て、知恵を得ていくこともあれば、時に、逆に力を失い、知恵を失うこともあるでしょう。その時、その時に、私たちは、自分が何のために、力、知恵を得て、また失っていくのかを考えていきたいと思います。(笠井元)