今朝は、イエス・キリストの生涯を独自の視点で語るヨハネ福音書の序曲の第三の部分をテキストにしています。この部分の最後である18節では、「いまだ神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された。」と言われています。また、最初の部分である14節では、「言(ロゴス)は肉となった。」と告白されています。「肉体となる」、いわゆる「受肉」(incarnation)です。私の勉強机に置いている「旺文社 国語辞典」には「受肉」という言葉は載っていませんが、Googleの検索では「三位一体のうち子なる神(神の言)が、ナザレのイエスという歴史的人間性を取ったことを指す」と解説されています。図書館に行って大きな国語辞書を10冊程度調べてみましたが、日本語で「受肉」という言葉が用いられている用例はありませんでした。英語では He is the incarnation of honesty「彼は正直そのものである」というような用例がありますので、欧米諸国と日本文化の差を感じました。「受肉」とは後のキリスト教の信仰告白によれば、イエス・キリストは100%神であり、100%人間であるということになるでしょう。神はご自身の本質を保ったまま、人間になることがお出来になるということです。
1.「受肉」と「わたしたちの間に宿られた」こと
「言は肉となった」とある後に、「わたしたちの間に宿られた」と言われます。(Ho Logos sarx egeneto kai eskēnōsen (dwelt,) en hemin)14節の「言は肉体となった(egeneto)」が決定的に重要なことなのですが、後半はその生き方を示していると言えるでしょう。「私たちの間に宿った」という「わたしたちの間」という言い方は慰めに満ちた言葉です。生身の人間が孤独と苦労の中に生きている、そのような「わたしたちの間」に宿られたのが受肉の言でありました。また、「宿る」(skēnoō)と翻訳された言葉は「テントを張って住む」という意味です。ヘブライ語では「シェーネン」です。ギリシヤ・ローマ社会では「テントを張る」というような習慣は日常生活ではありません。日本でも山に登ったり、ピクニックに行ったりした時にテントを張るくらいですね。古代ギリシヤの「ピュタゴラス学派」の哲学では、人間の肉体を永遠の「霊魂」の仮のテント小屋と考えました。霊魂が一時的に肉体に囚われているということです。現在では「ものみの塔」(エホバの証人)がこの立場です。罪深いこの世に神ご自身が肉体をとって来られるわけはないというのです。ですから、輸血などを拒否して社会問題になったりしています。また、この世界は仮の世の中であるという考え方は仏教の中にも生きていると思います。このような霊と肉を分けて肉体を軽んじる考えをヨハネの福音書は批判しています。神の子・ロゴスの受肉は決して「仮のこと」ではないと告白します。「わたしたちは見た」(etheasametha)と明確に告白されているからです。
では、この「宿った」ということをもっと積極的に展開してみましょう。使徒言行録18:3によると、パウロの職業は「テント造り」であり、この仕事をしながら福音宣教を行ったようです。ユダヤ人にとっては、天幕あるいはテントは「機動力」があるというか、「移動性」がある便利なものとして理解されたでしょう。荒れ野を旅するヘブライ人に「天幕」が寄り添い、モーセを通して神はその民と語られました。「会見の幕屋」です。しかし、時代が進むと定住することも多くなり、それまで移動していた会見の幕屋はエルサレム神殿に固定されていきます。この歴史の評価はどうであれ、神の子の受肉であるお方は、巡回伝道者であり、必要な人がいれば、すぐに駆け付けるという機動性、移動性をもって生きられたのでした。主イエスはみなさんの傍らに行かれます。テント生活者のようでした。この方は、ホームレスのような孤独な人の傍らにいられるように「ハウスレス」になられたのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)と言われる通りです。ですから「宿った」という言葉は仮の姿を意味するのではなく、皆さんの傍らに急ぐ移動するお方であるということを意味しているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
2.独り子の恵みと真理の輝き
14節後半は「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と言います。神は神でありながら人になることができた。この人間イエスにおいてこそヨハネは神の子の「栄光」「輝き」を見たというのです。 誰を、何を見たのか?「受肉された」100%人間であるお方は、父の傍ら(para)にいる独り子の栄光・輝きであった。その栄光・輝きを見たと言われています。
それは「独り子の恵みと真理に満ちていました。「恵み」(Charis)の反対語は、何でしょうか? いろいろな考えがあるかと思いますが、「恵み」の反対語は、「功徳」「手柄」(merit)です。「恵み」(カリスマ)は「受肉」とは違い日本語でももちいられるようになり、カリスマ主婦とかカリスマ美容師とか言われています。賜物の豊かな人を意味するようです。人の名前にも「恵み」という字が多く用いられていますね。「恵み」(grace)とは、先ほど言いましたように、ある行いの結果・報酬ではなく、ある戒めを守った功績でもはなく、そのようなものを遙かに超えてプレゼント・贈り物として与えられるものです。パウロはローマ6;23において「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と言います。ヨハネは、しかも、「恵み」の豊かさは14節では「満ちていた」(plērōma)とあり、16節では「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた(elabomen kai charin anti charitos)」と言います。「恵み」は「満ち溢れて他者をも豊かにしないではおかないものなのです。
さらに、この方は「真理」(alētheia)であると言われています。「真理」とはギリシヤ語では、覆いを取り除かれると見えてくるものですが、ヘブライ語の対応語はもっとダイナミックです。神が「アーメン」と語り、人が「アーメン」と応答する「エメト」です。真理と共に、「信実」を意味する素晴らしい言葉です。私たちの信仰は迷信や妄想、偶像崇拝とは違い、「真理」あるいは神の「信実」に根ざしています。そうであるように祈りましょう。
3.二つの道:「恵みと真理」の道そして「律法」の道、イエスの道とモーセの道
私たちの前には2つの道があります。一方は、「律法、モーセ、行い」の道、他方は、「恵みと真理、イエス、恵みとして受ける」の道です。日本社会には人が守るべき確かな基準・規範がなく、どこか何でもありです。しかしイスラエル社会では、モーセを通して与えられた「十戒」を中心とした「トーラー」(律法)があるのです。けれども、人は神の戒めを守って義とされる、正しいとされることはできません。律法は正しく、聖なるものでもありますが、人を救うことはできないのです。律法の第一の働きは、「罪あり」と判断することです。これに対して、「恵みと真理」はイエス・キリストを通して与えられました。ここでヨハネ福音書に初めて「イエス・キリスト」という表記が登場します。ヘブライ1:1~2aを引用します。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたでわたしたちに語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」 見えない神の語りかけは「律法」や「預言者」を通してだけではなく、現在では「被造世界からの語りかけ」や「歴史的しるし」(時代の風を通して?)を通しての語りがあるでしょう。しかし、人間が歪み、その結果、歴史も世界も歪んでいますので、「神は人間の愛の中に存在」するとも言えるし、逆に、不条理な出来事もあり、「正義と愛の神など存在しない」とも言えるでしょう。そこで、わたしたちは、イエス・キリストにおける神の決定的な語りに耳を傾ける必要があるのです。
こうして、わたしたちの前には、2つの秩序、2つの方法、2つの道があります。「律法」と「恵みと真理(ヘブライ語のヘセド・慈愛とアーマン・信実(パウロの信仰))の道です。一方はモーセを通して、もう一つは「イエス・キリスト」を通して与えられた道です! 私たちはどちらの道、どちらの方法を行くのか問われています。「律法」を求めて、罪ありとされ、罪の報酬である死を迎えるか、イエス・キリストにおいて溢れる「恵み」と真理の道を選んで、「永遠の命」の道を選ぶかです。
4.父の「ふところ」にいる独り子の神
イエス・キリストの物語、福音書の序曲の結論部分では、「いまだ神を見たものはいない。父のふところにいる独り子としての神、この方が神を示された。」(Theon oudeis heōraken pōpote; monogenēs Theos, ho ōn eis ton kolpon tou Patros, ekeinos exēgēsato)と言います。「ふところ」(Kolpos)にいるとは、親密な関係を表現します。あの人は「懐が深い」とか「懐が広い」などという表現もあります。お金がある人は「懐が温かい」などとも言います。父なる神とみ子イエス・キリストとの関係は、暖かい交わりと護りの関係です。神の子イエス・キリストは肉となって「異教の地」であるこの世に来て下さいましたが、この方は、他方で「唯一の独り子」であり、「神の子ら」(children)とされた私たちとは区別されたお方です。超越的なお方です。しかし、人間と世界を超えたその超越性は孤立した冷たいものではありません。この独り子は「父のふところ」にいる(いた?)というのです。「懐」とは味わい深い言葉です。イザヤ40:11には、「羊飼は小羊をその懐に抱く。」と言われています。肩というか首に巻くように「小羊」を背負う絵画もありますが、ふところに小羊を抱いて、ふところに入れて運んでくれる羊飼の絵もあります。羊飼いと羊の体温が伝わってきます。父とみ子は「懐にいる」関係ですが、羊飼の譬えでも分かるように、み子と私たちとの関係も「ふところ」に抱かれる関係です。「懐」(Kolpos)という表現は、ヨハネ13:23にも登場します。「イエスのすぐ隣(en tō kolpō tou Iēsu)には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。25節は「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それはだれのことですか』というと…」とあります。当時は横になり食事をしたと言われていますが、弟子のヨハネは、イエスのすぐ隣りで、寝そべっていたので、イエスの胸元に彼の頭というか顔があったと言うことでしょうか。こうして、イエスは父なる神のふところにおられた、イエスの愛する弟子ヨハネはイエスのふところにいたと言われています。また、ルカ16:22、23の金持ちと貧しいラザロの物語では、「この貧しい人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」(口語訳)と物語られています。
蒸し暑い季節では「懐」に抱かれたり、「懐」に入れられたら暑苦しい、息苦しいかも知れません。しかし、寒い北風の日、孤独に生きる日に、羊飼であるイエス様の懐にいると考えたら、心も体も温まる感じがしませんか? 実は14節にも「父の傍ら(para)にいます独り子」という表現が用いられていたのです。父の「傍ら」にいるにせよ、父の「ふところ」にいるにせよ、私たち、皆さんは、羊飼であるイエス様の懐に憩わせていただいていることは確かです。すべてに「とき」ありですが、愛する者を突き放すときもあり、抱き寄せ、「懐」に憩わせる時もあることでしょう。イエス様の懐にいる、死んだらイエス様のふところにいて復活の朝を待つ。ここに慰めを受けて、この一週間を過ごしましょう。(松見俊)