今朝は、ヨハネ福音書の序曲の第三の部分です。18節では、「いまだ神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方(イエス・キリスト)が神を示された。」と言われ、14節では、「言(ロゴス)は肉となって、」と告白されています。「肉体となる」、いわゆる「受肉」(incarnation)です。私の勉強机に置いてある「旺文社 国語辞典」には「受肉」という言葉は載っていませんが、Googleの検索では「三位一体のうち子なる神(神の言)が、ナザレのイエスという歴史的人間性を取ったことを指す」と解説されています。「受肉」とはイエス・キリストは100%神であり、100%人間であるということになるでしょう。
1.「受肉」と「わたしたちの間に宿られた」こと:「言は肉となった」と決定的なことが語られた後に、「わたしたちの間に宿られた」と言われます。「私たちの間」とは慰めに満ちた言葉です。また、「宿る」と翻訳された言葉は「テントを張って住む」という意味です。「ピュタゴラス学派」の哲学では、人間の肉体を永遠の「霊魂」の仮のテント小屋と考えました。霊魂が一時肉体に囚われているということです。このような霊肉二元論を批判し、ロゴスの受肉は決して「仮のこと」ではない、と告白します。
2.独り子の恵みと真理の輝き:14節後半は「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と言います。神は神でありながら人になることができた。この人間イエスにおいてこそヨハネは神の子の「栄光」「輝き」を見たというのです。「恵み」の反対語は「功徳」「手柄」(merit)です。「恵み」とは、ある行いの結果・報酬ではなく、そのようなものを遙かに超えてプレゼントとして与えられるものです。さらに「真理」であったと言われます。信仰は「真理」に根ざしています。
3.二つの道:「恵みと真理」そして「律法」、イエスとモーセ
私たちの前には2つの道があります。「律法、モーセ、行い」と「恵みと真理、イエス、恵みの授与」の道です。
4.父の「ふところ」にいる独り子の神
「ふところ」にいるとは親密な関係を表現します。「懐が深い」とか「懐が広い」などという表現もあります。父なる神とみ子、み子と私たちは「ふところ」のにいる関係、暖かい交わりと護りの関係です。(松見俊)