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2024.7.21 「あなたは誰の隣人となるのか」(全文) ルカによる福音書10:25-37

1:  私の隣人は誰ですか

今日の箇所は「善きサマリア人」という話として、イエス様のお話としても、とても有名な一つとなります。 今日は、ここから二つのこと、「あなたの隣人は誰か」ということと、そして「行って同じようにしなさい」という言葉から学んでいきたいと思います。

まず、今日の箇所において、律法の専門家が、イエス様を試そうとして、【「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」】(ルカ10:25)と尋ねました。この問いに、イエス様は【「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」】(ルカ10:26)と問い返されました。この人は、律法の専門家です。「律法にどのように書いてあるのか」ということは、よくわかっていたでしょう。そして、それはイエス様もわかっていた。そのうえで、このように問い返されたのです。この人は【「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」】(ルカ10:27)と答えたのです。イエス様を試そうとしていた律法の専門家は、「これ以上にない答えだろう、さあ、あなたは何と言う」といった思いをもって、自信をもってイエス様にこのように答えたのです。この答えにイエス様は、「いや、間違っている。」と言うのではなく「正しい答えだ」と言われたのです。イエス様を試そうとしていた律法の専門家としては、拍子抜けの答えだったかもしれません。ここからはイエス様は、相手が誰であれ、正しいことは正しいと言って下さるということを知るのです。

ただ、イエス様はこの答えに、もう一言付け加えて答えられました。【「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」】(ルカ10:28)イエス様は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』。・・・そして、この言葉を実行しなさい。そうすれば、あなたが言っていた永遠の命を受け継ぐ者とされる」と教えられたのです。このイエス様の言葉に、律法の専門家は「自分を正当化しようとした」とあります。律法の専門家は、イエス様が「正しい」とされる答えを答えたのですから、自分を正当化する必要はないはずです。ですから問題は、その答えのあとの一言、「神を愛し、隣人を愛するということを実行する」ということについてです。この律法の専門家の心の中には、「自分はそのようにはできていない」という思いがあったのでしょう。だからこそ、自分を正当化しようとしたのです。

皆さんは、このイエス様の言葉「神を愛し、隣人を愛する・・・このことを実行しなさい」という言葉を聞くときに、どのように感じられるでしょうか。「神様を愛しなさい。そして隣人を自分のように愛しなさい」と言われたときに、「それなら大丈夫。私はできている」と言うことが出来るでしょうか。このことを答えるにあたり、「隣人とは」という範囲にもよるのかもしれません。自分を愛してくれる人だけを「隣人」とするのならば、「できている」と答えることができると思うこともあるかもしれません。

ただ、この律法の専門家は、そのようには思わなかったのでしょう。だからこそ、ここで、【「では、わたしの隣人とは誰ですか」】(ルカ10:29)とイエス様に尋ねたのです。

 

2:  サマリア人のたとえ

この律法の専門家の「わたしの隣人とは誰ですか」という問いに対して、イエス様は一つのたとえ話をされたのです。それが「善いサマリア人」の話となります。このイエス様のたとえ話の内容を見ていきたいと思います。

まず、「ある人」が出てきます。これがサマリア人、異邦人であったら話が成り立たなくなってしまうので、あとの話から見ても、この人はユダヤ人となるでしょう。ある一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコに行く途中に「追いはぎ」、つまり「強盗」に襲われたのです。そして荷物も服もはぎとられ、殴りつけられ、半殺しにされてしまったのです。この人は、もはや息も絶え絶えの状態だったでしょう。

現代の、この日本という国で「強盗に襲われる」ということは、まったくないということではありませんが、日常茶飯事のことではないと思います。皆さんも、「ひったくり」や「スリ」、「泥棒」、「詐欺」になら出会ったことがある人もおられるかもしれませんが、強盗に襲われ、半殺しにあったという人はあまりいないのではないかと思います。ただ、「強盗」に襲われたのではなくても、全てを失い、死を目の前にして、誰かに助けて欲しいと思いながらも、どうすることもできない、まさに絶望の状態になったことはあるかもしれません。それこそ、大きな災害に出会ったときは、全てを失い、命の危険にさらされることとなります。このようなことは、この「災害大国」と言われる日本ですので、多くあることなのです。また、今は、ウクライナやガザ地区など各地で戦争が起こっています。その中にいる人々も、自分の財産を奪われ、命の危険にさらされている状態です。そのように考えると、今自分が強盗に襲われたわけではなくても、そのように死を目の前に、全てを失って苦しむ人々に思いを寄せることはできると思います。

また、そのような状況ではなくても、肉体的のことだけではなく、生きている意味を失うという意味で、心の中が絶望状態に陥っていることを考えるならば・・・どれほど財産を持っていても、どれほどの名誉を持つ者であったとしても、生きる意味を見失い、生きる希望を失っている時、命を頂いて生きていようとも、心が苦しく、絶望に陥っている人はたくさんおられるのではないかとも思うのです。

そのような風前の灯火の命に生きる中、苦しみ、絶望に生きる中、この話では、祭司が通るのです。祭司といえば、ユダヤの民の中であれば、とても偉い人で、このような死にさらされている人を助けるだけの、力を持っていると思える人でした。この絶望の中で苦しむ人は「この人なら・・・」と思ったことでしょう。しかし、この祭司は、自分を避けて通りすぎて行ってしまったのです。祭司がこの人を避けて行ったことには、大きな理由がありました。それは、死体に触れた場合は、自分が汚れた者とされるという律法があった、そしてその律法に従うと仕事が7日間もできなくなるということです。この律法は、現代のような医学の発達した時代ではない中では、とても意味のある戒めであったと言うことができます。死者に触れることには、何かしらの危険性があります。その方が、流行性の病気にかかって命を失われたかもしれませんし、ウイルスに感染してしまうこともあるかもしれないのです。だからこそ、死者に触れた場合は7日間、時間をおいて、問題ないとされてから社会に復帰するというのも一つの知恵だということができると思います。この律法を守るために祭司はこの人を避けて通っていったのです。それは、このあと通ったレビ人も同じでした。

この祭司もレビ人も同じようにしたことからわかるのは、二人とも律法、当時の社会ルールを大切にして、正しく生きたということです。当時の生き方としては、この祭司やレビ人がとても悪い人、冷徹な人だったということではなく、律法を大切にした生き方だったということです。この話を聞いていたのは、律法の専門家ですから、二人が律法を中心に判断したということはすぐに分かったでしょう。自分が専門としている律法を守り、生きた人たちは、人の命を見捨ててしまった。つまり、自分が学び、大切にしている律法を一番にしたとき、目の前の命を救うことはできないということ、神様から頂いたはずの戒めを、ただ言われた通りに守るだけでは、目の前にいる苦しむ人を助けることはできないということを教えられているのです。これは私たちも知る必要があるでしょう。律法は命の創造主である神様が与えて下さった戒めです。しかし、その律法をただ言葉通りに守ることだけを一番にしたときには、そこに命を見捨てるということが生まれてしまうことがありうるということです。つまり、生きた戒めとならないことがある。戒めは、その指針、目的を大切にするものであっても、あくまでも、その状況によって、変わる必要があるということです。

これは、私たちが聖書を読み解いていくときにも大切な視点となるでしょう。私たちがただ、聖書の言葉をその通りに受け取るだけでは、命を見捨ててしまうことがあるということです。愛の神、慈しみ深く、それでいて真実な方の言葉として、聖書の中にある、神様の愛のメッセージを聞いていく必要があるのです。

律法は、命の主、神様を一番にして、その神様によって命を吹き込まれた戒めとして頂いていく必要があるのです。神様に従うということは、神様が何を大切にし、何をすることを、私たちに求められているのかを考えなければならないということです。

さて、このイエス様のお話では、祭司、レビ人が通り過ぎていってしまった後、そこにサマリア人がやってきたのです。この時倒れていたユダヤ人は、このサマリアの人が来たことをどのように思ったでしょうか。「最後の頼みだ」と思ったでしょうか。この時、サマリア人が通ったことは、この人にとって、一番意味のないことだと感じたでしょう。ユダヤ人は、サマリア人のことを嫌い、差別していました。サマリア人とは、もともとユダヤ人でありながらも、異邦人の文化、宗教に触れ、ユダヤ人としての誇りもなくしてしまった人たちと考えていたのです。自分たちが、その存在を忌み嫌い、差別した人々。自分たちとは話すことも、許されない、敵対者。それがユダヤ人にとってのサマリア人です。倒れたユダヤ人からすれば、「なんでこんな人が通ったんだ」と思ったことでしょう。しかし、この追いはぎに半殺しにされ、命の危機にさらされていた、この人を救ったのは、このサマリア人だったのです。自分たちが差別し、その存在を否定した人に、この人は救い出されたのでした。しかも、ただ救い出してくれるだけではなく、宿屋に連れて行って介抱までしてくださり、元気になるまで宿代も払っていってくださったのです。この人は、こんなことが起こるとは、夢にも思っていなかったでしょう。

このサマリア人がこのユダヤ人を救い出すことで、これが隣人となることだと、イエス様は律法の専門家に教えられたのです。

 

3:  あなたの隣人とは誰か

 そして、イエス様は、律法の専門家に、【「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」】(ルカ10:36)と問われました。この問いに、律法の専門家は【「その人を助けた人です。」】(ルカ10:37)と答えます。

 私たちも、もし、自分が絶望の内にあり、死の危険性に置かれている中で、どれほどの理由があろうとも、自分を見捨てて行った人を、「隣人」とは言わないでしょう。この強盗に襲われたユダヤ人を見捨てて、律法を守った祭司、レビ人を、「律法を守るためだから仕方がない」、この二人もわたしの「隣人だ」とは思うでしょうか。この強盗に襲われた人にとって、自分の隣人となり、命を救い出してくれたのは、ただ一人、このサマリア人なのです。

 ここで、もう一度考えてみて欲しいと思います。「あなたの隣人とは誰か」と。皆さんの隣人は誰でしょうか。家族でしょうか。友人でしょうか。それとも、あなたが忌み嫌う者でしょうか。あなたの敵対者でしょうか。あなたを差別する人、またはあなたが差別している人でしょうか。この律法の専門家は、素直に、「律法を守った人ではなく、この人を助けた人、サマリア人が隣人だ」と言いました。この律法の専門家は、ある意味、頭が柔らかい人だったと言うことができると思います。本当にイエス様をわなにかけ、陥れるためだけであれば、この人は、それでも「律法を守った人だ」と言うかもしれません。

私たちにとっての隣人とは、一体誰のことなのでしょうか。この話から考えるならば、それこそ、どれほど、その関係がこじれて、悪い状態であったとしても、もしかしたら今は自分を傷つけるような発言をしている人でも、お互いを忌み嫌う存在であったとしても、・・・それでも、自分が命の危機にあるときに、手を差し伸べてくれる人、これまでの関係をすべて無視して、命を大切に守ろうとする人のことだと考えることができるでしょう。皆さんにとっての隣人とは誰なのか、そして皆さんは、誰の隣人となっているのか、よく考えてみたいと思うのです。

 

4:  行って、同じようにしなさい

 イエス様は、最後に、【「行って、あなたも同じようにしなさい。」】(ルカ10:37)と言われました。これまでは、話の流れから、どちらかというと、誰があなたの隣人となってくれているのかを考えてきました。しかし、イエス様が言われたのは、「誰があなたの隣人となってくれるのか」ではなく、「あなたは誰を隣人とするのか」ということです。ここでサマリア人は、自分を忌み嫌い、自分を差別し、自分の存在を否定するような人々の隣人となったのです。そして、イエス様は、「あなたも同じようにしなさい」と言われたのです。私たちは誰の隣人となるのでしょうか。誰の隣人となることができるのでしょうか。そして、誰の隣人となるべきなのでしょうか。イエス様が私たちに教えてくださっているのは・・・「それが、あなたを傷つけるような人であっても、あなたを人間として認めないような人、敵対する人であっても、それがどのような人であったとしても、傷つき、苦しみ、絶望のなか、生きる希望を失っている人と共に生きる道を選びなさい」、ということであり、「そのとき、あなたはその人の隣人となることができる」、そして、「そのとき、あなたは本当の命を得る」と教えて下さっているのです。

 これは「あなたの敵を愛しなさい」と言われたイエス様の言葉と繋がります。イエス様は【敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい】(マタイ5:44)と教えられたのです。そして、このことを実際になされた方、自分を傷つけ、自分を裏切り、自分の命を奪いとっていった人をも、愛し続けた方がイエス・キリストです。私たちの本当の隣人。それは何があろうとも、私たちを愛し続けた方、イエス・キリストです。イエス様は、この世に生まれ、決して楽な人生を歩まれたわけではありません。大工よりも貧しい石工という仕事をしたとされ、苦しい生活の中を生きたのです。そして、神様のことを宣べ伝える中でも、苦しむ人に寄り添い、孤独な人の重荷を共に担い、生きたのです。それだけではありません。自分を傷つける人、自分を殺そうとしている律法学者たちとも向かい合い、話し合い、共に歩まれたのです。このイエス・キリストが歩まれた道こそ、「隣人となる道」です。このイエス・キリストが、私たちの隣人となってくださった。私たちは、このイエス・キリストという共に歩む方がおられることを、まず覚えたいと思うのです。

このイエス様が【「行って、あなたも同じようにしなさい。」】(ルカ10:37)と言われました。それは、まさにこのイエス・キリストが歩まれた道を同じように歩みなさいということになります。私たちは、イエス・キリストに従うために、イエス・キリストの生きた道を、ただつき従うのです。それは、私たちが愛を振りまく道ではありません。イエス・キリストの愛を頂いて生きる道です。私たち人間は、弱さを持ちます。そのため、「敵を愛する」こと、「隣人となる」ということは簡単なことではないのです。しかし、だからこそ諦めて、自分のためだけに生きるのではなく、そこから「神を愛し、隣人を愛する」という、生きる指針を持って、命の道を選び取っていきたいと思うのです。イエス様が愛を注ぎ続けてくださっている。そのことを全身で受けた者として、ただ生きていきたい。私たちは、私たちのために命を懸けて歩んでくださった方、どこまでも共に生きて、隣人となってくださったイエス・キリストに従い、今、絶望に生きる人に目を向け、共に生きる者と変えられていきたいと思います。

 

このイエス・キリストに従い生きる時、私たちは「命を得る」のです。イエス様が私たちに求められているのは、心から神様の愛に満たされて、喜びをもって、愛し、すべての者の隣人となり、生きていくことです。ここに本当の命を得ると教えておられるのです。私たちは、この命を得る者として、生きていきましょう。(笠井元)