1: 私の隣人は誰ですか
律法の専門家とイエス様のやりとりがあります。イエス様はやり取りで「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(ルカ10:28)と答えました。このイエス様の言葉に、律法の専門家は「自分を正当化しようとした」とあります。律法の専門家の心の中には「自分はそのようにはできていない」という思いがあったのでしょう。だからこそ、自分を正当化しようとしたのです。
2: サマリア人のたとえ
律法の専門家はイエス様に「わたしの隣人とは誰ですか」と問いかけました。これに対してイエス様は「善いサマリア人」の話をされました。
ある一人のユダヤ人が、エルサレムからエリコに行く途中に「追いはぎ」、「強盗」に襲われたのです。そのような絶望の中に祭司が通るのです。しかし律法を守るために祭司はこの人を避けて通っていったのです。律法を守るために命を見捨ててしまったのです。律法は、命の主、神様を一番にして、その神様によって命を吹き込まれた戒めとして頂いていく必要があるのです。祭司、レビ人が通り過ぎていってしまった後サマリア人がやってきたのです。この人を救ったのは、差別し、存在を否定したサマリア人でした。
3: あなたの隣人とは誰か
イエス様は律法の専門家に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」(ルカ10:36)と問われました。律法の専門家は「その人を助けた人です。」(ルカ10:37)と答えます。私たちにとっての隣人とは、一体誰のことなのでしょうか。この話から考えるならば、お互いを忌み嫌う存在であったとしても、これまでの関係をすべて無視して、命を大切に守ろうとする人のことだと考えることができるでしょう。
4: 行って、同じようにしなさい
イエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。イエス様が言われたのは、「誰があなたの隣人となってくれるのか」ではなく「あなたは誰を隣人とするのか」です。イエス様は「あなたは敵対する人であっても、どのような人であったとしても、生きる希望を失っている人と共に生きる道を選びなさい。そのとき、あなたはその人の隣人となることができる。そのとき、あなたは本当の命を得る」と教えて下さっているのです。
私たちの本当の隣人は、何があろうとも私たちを愛し続けたイエス・キリストです。イエス・キリストが歩まれた道こそ、隣人となる道です。私たちはイエス・キリストに従い、今、絶望に生きる人と共に生きる者と変えられていきたいと思います。イエス・キリストに従い生きる時、私たちは「命を得る」のです。(笠井元)