1: 行いによって救いを得ることはない
今日の箇所は「キリストが献げられたことによって、私たちは永遠に完全な者とされた。あなたは赦されている。もはや供え物えは必要ない」と教えます。
1節からの箇所で、律法によって定められた、毎年、同じいけにえを献げることで生まれるのは、罪の自覚であり、罪の記憶がよみがえるだけであると教えます。パウロも同じように教えています。【なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。】(ローマ3:20)
ここでは、人間が、自分の行為によって救いを得ることができると勘違いをしてしまうものの代表として「律法」が挙げられています。ここでは【律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実態はありません】(ヘブライ10:1)とあります。これは律法は影でしかない、意味のないものだとして読み取ることとなります。確かに律法を律法主義的に受け取る場合はそうなるでしょう。ただ、それは律法自体が「悪」となるのではなく、律法から「いけにえを献げることによって罪の赦しを得よう」とすることに問題があるのです。
私たちが自分の行為、礼拝に出席すること、祈ること、教会での奉仕などによって救いを得ると考えてしまうことがあるならば、そこに大きな問題が生まれるでしょう。
2: キリストによる恵み
ここでは、ただ一度、イエス・キリスト自らが献げられたことによって、人間は赦されているということを教えます。パウロはこのように教えます。【ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。】(ローマ3:24-25)
神様はイエス・キリストを通して、ただ神の一方的な恵みとして人間を贖われたのです。そこに、人間がいけにえを持ってくるとか、何かをするとかしないとか、それらはまったく関係ないのです。キリストといういけにえは、唯一であり、ただ一度なされた出来事でした。その一度の救いの出来事によって、全ての者が聖なる者、完全なる者とされたのです。私たちに与えられているのは、このイエス・キリストによる恵みの出来事なのです。
私たちは、イエス・キリストをどのように受け取るのでしょうか。「自分が罪人であるから、その救いのためにイエス・キリストが来られた。だから悔い改めましょう」と聞くのでしょうか。
それとも「ただ神様の一方的な恵みとして、イエス・キリストが来られた。だから神様の愛を知る者として喜んで生きていきましょう」と聞くのでしょうか。神様は、私たちが神様を喜んで賛美し、礼拝し、祈ることを望んでおられるのです。
讃美歌「主われを愛す」はこのことを端的に表しています。わたしたちが神様を愛しているのではなく、神様が私たちを愛してくださっているのです。
3: いけにえを望まれていない
今日の箇所5節からの箇所は、詩編40章7節からの言葉の引用となっています。ここでは、「いけにえや献げ物を望まず、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。」とあります。
神様は、人間が自ら主体になりいけにえを献げることを喜ばれなかったのです。むしろ神様が主体となって献げられた、イエス・キリストを自らの主として受け入れていくこと、神様の救いの御業を信じることを喜ばれたのです。
私たちは、神様に従う者として何をすることができるでしょうか。【そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。】(Ⅰコリント12:31b-13:3)
私たちが、完全な信仰を持っていようとも、自分を死に引き渡そうとも、その中心に愛がなければ何の益もないのです。つまり、私たちが自分でどれほどのいけにえを献げたとしても、そこに愛の方イエス・キリストがいなければ、本当の恵みの喜びとなることはないのです。
4: 喜びに満たされて生きる
イエス・キリストが、自らを神様に献げる者となることにより、私たちは、永遠に完全な者とされたのです。神様は、私たち人間を愛されました。これが私たちに与えられている恵みの業です。この後、ヘブライ書ではこのように続けます。
【約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。】(ヘブライ10:23-25)
私たちはすでに完全な者、救いの業に与る者とされたのです。そしてだからこそ、心の底からあふれ出る喜びに満たされて生きていきたいと思います。その時、私たちは、互いに愛と善行に励み、お互いに励まし合っていく者とされていくのでしょう。
私たちは、罪が赦されるために、神様の前に善行を励むのではなく、神様の愛されている者として、お互いに励まし合い生きていきたいと思います。(笠井元)