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2024.8.4 「歴史から学ぶ~過ちを繰り返さないために~」(全文) エレミヤ書6:16-21

1:  歴史から学ぶ

  今日の箇所において神様は言われました。【「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ、どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」】(エレミヤ6:16)神様は、私たち人間が、幸せに生きることを願っています。だからこそ、どうしたら幸せになれるのか、どうすれば魂に安らぎを得ることができるのか、よく考えて、「昔からの道に問いかけてみよ」、そして「さまざまな道に立って、眺めてみなさい」と教えているのです。神様は、これまでの過去・歴史を振り返ることを勧めておられます。

「歴史は繰り返される」とよく言われますが、繰り返してはいけない歴史があり、繰り返さないために歴史から学ぶのです。学校で社会の時間に歴史を学びます。どの時代に何があったのか、どんな人が何をしてきたのか・・・。ただ学校では歴史を何のために学ぶのかを、なかなか教えてくれません。基本的には、良い成績を取るために、ただ年数を覚えて、人の名前、書物や建物の名前を覚えるものとなっています。ただ、歴史を学ぶのは、本当はそれだけのためにあるのではないのです。そうではなく、人間の歩んできた道を振り返り、より良い社会を作るために歴史を学ぶのです。どうすれば多くの人々が幸せになれるのか。弱い者、苦しんでいる人を助けるためには、どのような政策をすればよいのか。そして逆に、どうしたら人が人を苦しめていくことになったのか。その制度、政策はどのようなものだったのか。そして同じ過ちを繰り返すことのないため、正しい道を歩むために、どのようにすればよいのかを学ぶのです。間違った行為を繰り返すことのないように、過ちの始まりに何が起こり、そのきっかけは何だったのか・・・そして、どのようにしたら軌道を修正することができるのか。より良い世界を作るために、そのために人間は知恵を使い、お互いが喜んで生きるために、歴史を学ぶのです。私たちは過去から何を学んでいるでしょうか。神様は「どれが幸せに至る道なのか、魂に安らぎを得る道なのか、そのために過去に問いかけなさい」と教えておられるのです。

この神様の言葉が直接向けられた、イスラエルの過去を少し見てみましょう。イスラエルは、小さく、弱い民族でした。北にはアッシリアやバビロニア、ペルシアといった大国があり、南にはエジプトがあったのです。そのような大国に常に囲まれながら、小さく、弱い立場の中、時に奴隷とされつつ、苦しみ生きていた民族なのです。そのようなイスラエルを神様は選び、祝福されたのです。神様は、エジプトで奴隷になって苦しむイスラエルの民を見て、その奴隷という立場から解放してくださったのです。これが出エジプトの出来事です。神様が苦しみから救い出して下さった。神様が祝福の約束を守って、顧みてくださった。これがイスラエルの民、弱く、小さい立場に置かれた者に与えられた恵みの出来事でした。それは、神様は弱い者を決して見捨てないということでもあり、大国に対する警告とも言えるでしょう。

そして、その神様が、この恵みの中に生きるために与えてくださった戒め、それが「十戒」であり「律法」です。イスラエルの民は、神様からの恵みを受けて、この戒めに聞き従う道を受け入れて、祝福を得て生きてきたのです。歴史の中では、イスラエルが、この戒めから離れることも何度もありましたが、そのたびに、神様の招きがあり、戒められ、悔い改めてきたのです。イスラエルの民の歴史は、神様と向き合ってきた歴史です。この世では力のない者とされながらも、神様の恵みを頂き、救いの道に招かれ、時に離れながらも悔い改めてきた歴史とも言えるでしょう。

神様は「この歴史、昔からの道に問いかけてみよ。そして魂の安らぎを得よ」と招いておられるのです。ここでの「得よ」という言葉は「見いだせ」と訳せる言葉で、神様は、「過去を見ることから魂の安らぎを見出しなさい」と教えて下さっているのです。

 

2:   何のために学び、生きるのか

それに対して、イスラエルの民は【「そこを歩むことをしない」】(エレミヤ6:16)、そして、【「耳を澄まして待つことはしない」】(エレミヤ6:17)と答えたのでした。これがイスラエルの答えです。過去を振り返って、神様に向き合ってきた姿を見ても、「そこを歩むことはしない」とし、そして神様が「耳を澄まして待て」と言われても「耳を澄まして待つことはしない」と言ったのです。そのため、19節で神様は、【この地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。それは彼らのたくらみが結んだ実である。彼らがわたしの言葉に耳を傾けず、わたしの教えを拒んだからだ。】(エレミヤ6:19)と言われました。

先ほど、歴史は、人間が過ちを振り返り、繰り返すことのないために、どのようにすればよいのかを学ぶものだとしました。ただ、歴史を学ぶことは、逆の目的にも使うことができるのです。つまり、同じ過ちを繰り返すための方法を知るためです。人を苦しめる方法。犯罪をする方法。お金を手に入れる方法。戦争を始める方法。そのために大義名分を作り、群衆を扇動する方法。人々の指示を得て、正しい戦争だと言わせる方法。人間を搾取し、支配する方法。テロを起こす方法。歴史からは、そのようなことを学ぶこともできるのです。現在はロシアとウクライナ、そしてその背後にいる、西側諸国とされる、アメリカを中心とした国々が、戦争を行っており、またイスラエルとハマスが戦争を行っています。そして、そのほかの場所でも軍事政権による紛争が起こっています。今、見えてくるのは、「自分たちがしていることは、どうすれば正しい戦争だと主張することができるのか」を考えている人々の姿です。そしてその裏に見えるのは、どのようにしたら自分たちに火の粉が飛んでこないかを考えている人たちの姿でもあります。

私たちは、何のために学び、何のために知恵を得て、何のために力を得て、生きているのでしょうか。

私たちの教会には附属の幼稚園がありますが、幼稚園は教育機関ですので、何かを学ぶためにあります。この東福岡幼稚園では何よりも、神様のために生きるため、隣人のために生きるため、愛するために学ぶことを目的としています。知恵を得て、力を得て、隣人と助け合い、神様に仕えていくように学んで欲しいと願っています。

幼稚園ではハサミの使い方、包丁の使い方を教えます。ハサミで工作をすることから、将来は多くの人々が喜んで住む家や建物を作るようになるかもしれません。または、人々の心を満たす芸術を作り出す人となるかもしれません。包丁の使い方を覚えれば、美味しいごはんを作ってみんなで喜ぶこともできます。ただ、刃物は使い方を間違えれば、人を傷つけることも出来るものです。また直接ではなくても、美味しいごはんを作るにしても、その時、自分のためだけのことを考えて、食べ物を分かち合うのではなく、隣の人が空腹で苦しんでいることに目を向けなければ、それも結果としては、他者を傷つけていくことになるかもしれません。刃物だけではありません。何を学び、何を得たとしても、何のために・・・というところが「自分のためだけ」となっていて、「神様の愛を受け、その愛を隣人と分かち合う」ことを忘れてしまっているならば、結果として人を傷つけてしまうのではないでしょうか。

私たちは「何のために」生きているのでしょうか。皆さんは今、何の目的を持って生きているのでしょうか。

 

3:  過去から神様に従う道を見出していく

私たちは、過去を見たとき、何を学ぶことができるでしょうか。8月は日本にとって特別な月と言えます。8月15日が敗戦記念日となります。 8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆が投下されました。そして8月15日に第二次世界大戦、太平洋戦争が終わったのです。福岡では、福岡大空襲が6月19日~20日にあったと聞いています。私の父は、沖縄出身ですので、戦争によって多くの家族、親戚が死んでいったことを聞いてきました。ただ、同時に、日本という国は多くの国々の人々を傷つけてきたのです。「戦争だから仕方がない」と言い訳をすることはできません。多くの人々の住むべき地を、自分たちのものとし、命を奪い、心も体も傷つけてきた。それが私たちの国の歩んできた道です。この国の過ちの歴史です。私たちは、このことを忘れてはいけないのです。私たちは、この国の、この過去を見て、何を学んでいるでしょうか。何が間違いで、何が正しいことなのか、学ぶことが出来ているでしょうか。

 私は父から何度も「自分が傷つくことを恐れて、人を傷つけてはいけない」。「力を求める者は力によって滅びる」と言い聞かされてきました。日本は戦後、「武器を持たない」と言いながらも、自国の防衛のためにとして、自衛隊を置き、武器を持つ国となっています。そして今では、自己防衛のためという考えから、傷つけられる前に、傷つけてしまおうという道を歩いています。私たちは、過去を見てみれば、「武器を持つか、持たないか」どちらが幸せの道かはすぐにわかるはずです。自分を守るためだとしても、理由は関係なく、武器を持ち、力を持って、本当の幸せを得ることは決してありません。他者を傷つける上で得た、幸せは、本当の幸せではないのです。

今、私たちが生きるこの社会には、なかなか未来に希望が持てません。地球は温暖化、もはや沸騰化とも言われますが、そのような気候の変動により、多くの災害が起こり、食べ物もこれまでのように採れなくなり、物価は高騰し、食べることも、生きることも難しくなってきています。歴史を振り返ると、未来に希望が持てない時、人間は間違った道を歩き始めます。歴史がそのように語っています。生活が混沌とする中で、人間は間違った情報を信じてしまいます。普通ではありえない判断をしてしまうことがあるのです。「絶望」「恐怖」は、人間を間違った方向へと進ませていきます。自分が生きるため、他者を傷つけることも仕方がないと思い始めてしまう。生きるため、力を欲してしまう。そのために導いてくれるリーダーを求めるのです。間違った道へ導くリーダーを、自分たちを救い出す人だと勘違いしていきます。それこそ歴史がそのように教えてくれます。聖書でも、イスラエルは他国に対抗するために、神様を求めるのをやめて、王様を求めていったことが記されています。結果はその王様が神様から離れることによって、イスラエルという国全体が滅び、捕囚の民となっていったのです。私たちは、今こそ、過去から学ばなければなりません。過去から、神様に従う道を見出していくのです。ただ一つ魂に本当の安らぎを与えて下さる方の言葉に耳を傾けるのです。これが私たちに与えられた恵みの道なのです。

 

4:  神様の声に耳を傾ける

今日の箇所では、【この地よ、聞け。見よ、わたしはこの民に災いをもたらす。それは彼らのたくらみが結んだ実である。彼らがわたしの言葉に耳を傾けず、わたしの教えを拒んだからだ。】(エレミヤ6:19)と言います。「彼らのたくらみ」は「彼らの計画」という意味を持ちます。人間は、過去から見れば明らかなのに、それでも「自分たちは神様に耳を傾けることはしない」と言いながら、自ら滅びの計画を立てていくのです。この人間の過ちの歩みは、植物が、水も肥料もない中では、何もしなければ枯れていくように、勝手に滅びていく歩みとなります。そのような勝手に滅んでいく人間を見る中で、神様は「勝手に滅びてしまえばよい」と言うのではありません。「わたしが災いをもたらす」「わたしがつまずきを置く」と言われるのです。これは血も涙もない冷徹な神様が、「言うことを聞かない人間を滅ぼす」と言っているのではないのです。むしろ本当に神様が冷たい方であれば、人間に関わらなければいいのです。何もしない。関心を持たず、関わらず、無視をしていれば、人間は勝手に滅んでいくのです。しかし、神様は、そのような誤った道を歩んでいく人間に関わられるのです。ただ成り行きに任せておけば、勝手に滅びてしまう者に対して、「私があなたを躓かせる」と・・・「私が」と、ご自身が意志を持って、私たちに関わり、「その道に躓きを置く」と言われるのです。これは、神様が人間を見捨てたのではなく、むしろその人間のつまずきの一つ一つにも、神様が関り、そこにおいて、苦しむ人間と共に、神様ご自身も、自らが痛み、悲しみ、苦しみながらも、その道を歩む人間に関わってくださることを意味します。私たちは、「自分の自由だ」と言って、自分のために生きているうちに、いつの間にか、他者を傷つけることがあるように、私たちは、神様をも傷つけていることを覚えておかなければならないでしょう。神様は、それほどに、人間を愛し、人間に関わる方なのです。

 20節では、神様が高価な乳香や、焼き尽くす献げ物、いけにえを喜ばれないことを教えます。 神様が喜ばれるのは、神様に目を向け、悔い改める人間です。何があっても自分の道を歩いていく人間が、躓き、倒れ、傷つき、同時に神様ご自身も傷つき、悲しみ、苦しむ中で、人間が、本当に生きるべき道に立ち帰ることです。神様が喜ばれることは、人間が、本来生きるべき道に立ち帰り、幸せに生きて、魂の安らぎを受けて生きること。悔い改め、へりくだり、神様に自分自身を差し出すことです。そして、それは、神様のため、隣人のために生きる道を求めることです。そのために、神様は、過去を見て問いかけること、そして耳を澄まして、神様の声に耳を傾けることを求められています。私たちは、今一度、自分の人生を何のために、どのように生きるか、考えていきたいと思います。そして、そのために、歴史・過去から学びましょう。お互いが助けあうために、どのようにすればよいのかを考え、神様の声に耳を傾けていきたいと思います。(笠井元)