今朝の箇所には、「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生れた者も皆そのとおりである。」という印象的な言葉があります。旧約聖書の「ルアッハ」も霊と翻訳され、それはまた「風」とか「息」とも翻訳されます。同じように新約聖書の「プネブマ」も霊とも風とも翻訳されます。祈りや信仰は、神に向かって「呼吸」をすること、神の息を吸うことです。神が「息を吹きかけられておられること」に自分を開くことです。また、世の中の動き、気配を「この世の風」、「時代精神」とも言いますが、誰もが、騒がしい、荒れた経済、暴力的な風潮の影響を受けています。8月は特に「平和」を求めて祈り、声を挙げるときです。どのような風に吹かれて私たちは生きているのか、新鮮で穏やかで平和に満ちた息を神さまから日々受けて生きているかが問われています。
1. ニコデモとは
今朝の物語には登場人物として、「イエス様」と「ニコデモ」が登場します。4節に「年をとった者が、どうして生まれることができるでしょうか。」とありますので、かなり年寄りであったようなイメージです。もうあまり変化することも、新しく生まれて生きることも考えることもできなかったに違いありません。私自身も今まで出来ていたことが少しずつできなくなってきています。生まれるどころではない!という想いがニコデモにもあったのかも知れません。
「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。ニコデモは世間的に見たら成功者、恵まれた人でした。ファリサイ派ということですから、宗教的に熱心で、精神的に立派な人でした。使徒パウロもファリサイ派に属していました。ニコデモは「ユダヤ人の議員であった」とあります。この肩書によると、「サンヘドリン」と呼ばれた70人からなるユダヤ議会の議員であったのだろうと推測されます。イエス様が活動された当時、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。しかし、限られた自治が許されていましたので、小さな議会を構成していました。議員は社会的、政治的な名士です。こうして、ニコデモは年齢的に経験もあり、宗教的、精神的に優れていただけではなく、社会的、政治的にも成功者でした。「ニコデモ」とは、「自由市民の支配者」という意味ですから、名前も立派です。まあ、ユダヤ人でありながらこのようなギリシャ語の名を持っているという事実の背後にはローマによって支配されているという民族的な「悲しみの影」もあるかも知れません。しかし、それでも、ニコデモは人生の成功者であったと言えるでしょう。
2.ニコデモの想い
しかし、そのニコデモが人目を避けて夜、主イエスを訪問したのです。なぜ人生の成功者、経験豊かなニコデモが、三〇数歳の年若いイエス様を訪ねたのでしょうか。二節には、イエス様には「神のもとから来られた教師」として、何かしらあるに違いないと思ったからだ、また、イエス様のなさる奇蹟的な「しるし」の業を見たから、あるいは自分もそれを見てみたいから、と言っています。「ラビ、わたしどもは」とありますので、良識あるユダヤ人を代表しているのかも知れません。このようなニコデモに対して、三節のイエス様の言葉、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という言葉からニコデモの想いを逆算して考えてみます。確かに、ニコデモは社会的に成功し、地位も名誉も手にし、そして宗教的深みも経験していたのですが、それでもなお、最後に何か足りない、その最後の数パーセントの空白を埋めるために主イエス様を訪問したのかも知れません。彼は真面目な人生の求道者であります。しかし、救いに到達できません。
皆さんはそれほど年を取られていないかも知れませんが、人はだれでも、心の隙間を持ち、どこか漠然とした何かを求めてはいないでしょうか。ニコデモは、その最後の心の隙間、心の空白、それを満たしてもらうために、「しるし」を求めてイエス様の処にきたのです。しかし、信仰とは何かを継ぎ足して、最後の何かを埋めて自分という人間を完成させることではなく、「新しく生まれることである」とイエス様は言うのです。「神の国を見る」とはどこか空間的な場所ではなく、恵みによる神の愛と正義の支配のことです。ここにニユダヤ人コデモとイエス様の違いがあったのです。
3.新しく生まれること
イエス様はニコデモの想いとは全く別のことを言われるのです。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。自分の経験、蓄積してきたもの、成し遂げてきたものをいくら積み重ねても、いくら年を重ねても所詮それらは6節にあるように「肉から生まれたものは、肉にすぎない」のだ、という現実を乗り越えることはできません。これは厳しい言葉です。血縁関係、本能的欲望、この世の地位や経歴、人間的な知識と律法への生真面目さを積み重ねても、神の愛と慈しみの「支配」を見ること、そこに入って救われ、生きることはできません。あと少し足りない「何か」を求めるのではなく、ちょっと化粧直し、あるいは努力して少しは変化したいというのではなく、「新しく生まれること」が必要だと言うのです。信仰は「最後に何か足りない空白」を埋めることではなく、「新しく生まれる」出来事なのです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。(4節)いや、ごもっともな反論です。しかし、人間というものは、このようなニコデモの反論と同時に、先ほど言いましたように、自分を生かしているもっと大きな世界を知りたいという思いを持つものです。人には、「赤ちゃん帰り」という現象がありますね。一種の退行現象ですが、これが過ぎると心理学的には大きな問題を惹き起します。人はだれでも、どこか、平和であった母親のお腹の中に帰りたいという心理をもっているようです。しかし、人は前に進むしかありません。人やものと出会いながら、知識と経験を積み上げていくのです。しかし、そうすると今度は、私たちの未来を自分たちの知識と経験と、限られた人との限られた出会いの延長線上でしか「明日」を考えられなくなります。もう一度母の胎内に戻るような退行現象は許されない。白紙には戻れません。そんなことをしたら歴史を刻んできたみなさんお一人お一人、そして、東福岡教会の味わってきた苦悩と喜びが意味のないものとなってしまいます。しかし、だからといって、いままでの経験と歴史の延長線上にのみ自分と教会の未来を描くのであれば、確実に死は見えてきますが、将来の展望が見えにくいです。これが私たちのジレンマです。しかし、主イエスは言われます。聖霊は「風は思いのままに吹く。」これは勝手きまま、どうなるか分からないということではなく、聖霊が、神が意志するままに、命の息を与えてくださるということでしょう。聖霊は自由な、愉快な創造力・想像力です。そして、主イエスは言われます、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」「よくよくあなたに言っておく、だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない」と。
4.霊による新生
人は霊によって「新しく生まれること」ができるのです。バプテストは『新生讃美歌』という賛美歌集からも分かるように、霊のバプテスマを受けて、「新生」して、その証として、信仰の服従の第一歩として、水のバプテスマを受けることを強調してきました。しかし、強調点は私たちの体験にあるのではありません。いつ、どのように新生したのかを問うのであればニコデモと変わりません。イエス・キリストの「上から」の到来によって決定的に新しい事が起こったこと、神の恵みによって救われるという決定的に新しいことがらが到来しているのです。私たちの中には生きて働くイエス様がおられるのです。このお方を「信じること」「信頼して」生きることが大切です。私たちの目を聖霊の送り主であるイエス様に向けましょう。このお方の愛によって、このお方の霊を受けて2度目の誕生日を迎えることができるのです。嬉しいことです。今度は肉からではなく、霊から、霊によって生まれるのです。「霊」とは英語では「スピリット」ですが、「霊」の理解が難しいでしょうか。「霊」とは「物質」のように、この世にかたちをとるものではなく、それに支配されていきる「肉」と対立しているものを指します。「聖霊」の反対語は「汚れた悪霊」です。聖霊とは神の聖い人格的影響力のことです。悪霊とは、この世の戦争の霊、お金がすべてであるような拝金主義の霊など人間を捉える影響力です。人はこのような悪霊の支配に縛られてしまいます。しかし、聖なる神の「霊によって生れ、神の愛の支配の中に生きること」ができるのです。
5.新しいことと古いこと
イエス・キリストを救い主と信じてバプテスマを受けること、聖霊によって新しく生まれることは、今までの自分の歴史、知識、経験を全く無駄にすることなのでしょうか?捨ててしまうことでしょうか? 決してそうではありません。そうではなしに、それらが全く新しい光の中で位置づけられ、意味づけられるのです。不思議なことです。皆さんが味わってこられた悲しみ、怒り、孤独は新しい光の下で「そうだったのか」と息づいてくるのです。過去の失敗も問題も苦しみも、むろん、努力も喜びも新しい意味をもって息づいてくるのです。無駄な経験など何一つないのです。新しいことが古いことを生かすのです。皆さんの今までの歴史、積み重ねて来られた経験を、失敗や挫折、悲しみを含めて、新しい光の中で位置づけ、感謝をもって受け止めましょう。新しく生まれること、これが自分の今までの経験「古いこと」を生かす大切なポイントです。
6.その後の「ニコデモ」
ヨハネによる福音書の19:38-40に再びニコデモが登場します。いわゆる「ピエタ」、十字架からイエス様を引き下ろし、マリアがその胸に我が子イエスを抱く感動的な場面です。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかりもってきた。」男性の弟子たちが逃げ去ったとき、政治犯として処刑されたイエスに近づくことは勇気のいることです。葬りの準備ですから大量の没薬と沈香が必要です。それらは非常に高価なものでした。この十字架の下でのニコデモの物語のその後は書かれていません。イエス様と出会った皆さんお一人おひとりがご自分の信仰の姿をその後の「ニコデモ」としてとして描いて、想像してみたらどうでしょう。
7.十字架のキリストを見上げる
最後に、不思議な言葉に触れておきます。有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)の導入というか「繋ぎ」の部分です。3章16節はもう何度も説教で取り上げましたので今朝は取り上げません。その導入となっている、奇妙な荒れ野のヘビの話に触れておきます。旧約聖書の民数記の古い伝承によると、エジプトの奴隷状態から脱出したヘブライ人たちは、荒れ野で火のへび、つまり、毒蛇に悩まされ、噛まれて死んでしまった人もいたようです。そこで、モーセは青銅で蛇を造り、それを竿に掲げ、それを仰いだ人たちは癒されたのでした。3千年前の文献ですから、本来何を言おうとしているのかはもはや不明です。ギリシャ神話の医学の神、アポロンの子アスクレビオスの杖には健康、長寿、不死の象徴として一匹の蛇がからみついていたそうです。旧約聖書では、モーセの杖はエジプトの抑圧者ファラオの前で蛇に変身したと言われています。はっきりしたことは言えませんが、ひとつのことだけは確実です。ヘビに噛まれて、あわてふためいていたずらに動き回った人々は死んでしまいましたが、じたばたせずに、神を信頼してモーセが掲げた身代わりの青銅の蛇を見上げた人々は癒されたということです。バプテストの有名な説教者、指導者であるスポルジョンはある日礼拝の中で、「わたしを仰いで、救いを得よ」(イザヤ45:22)の単純な説教によって救いを体験したそうです。私たちは自分の弱さ、問題などばかりを見て、また周りの人の問題を見て、それらに囚われ、自分の功績などに拘り、他者に躓き、イエス・キリストを仰ぎのぞむことをしないのです。いま、みなさんは何を見つめ、何を仰いでいるでしょうか。十字架につけられ、よみがえらされたイエス・キリストを見つめましょう。十字架に挙げられ、それを突破してよみがえられたお方です。
「地の果てのすべての人々よ/わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ45:22)(松見俊)