信仰は、神に向かって「呼吸」をすること、息を吐くこと吸うことです。この息を霊と言います。また、誰もが、騒がしい、暴力的な風潮の影響を受けています。世の中の動き、気配を「この世の風」とも言いますが、8月は特に「平和」を求めて祈り、声を挙げるときです。新鮮で穏やかで平和に満ちた息を神さまから受けて生きているかが問われます。
1.ニコデモとは:「ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。ニコデモは世間的に見たら社会的成功者、恵まれた人でした。宗教的にも熱心で、精神的に立派な人でした。
2.ニコデモの想い:しかし、そのニコデモが人目を避けて夜、主イエスを訪問したのです。成功者でも、最後に何か足りない、その最後の空白を埋めるために主イエス様を訪問したのかも知れません。
3.新しく生まれること:イエス様はニコデモの想いとは全く別のことを言われるのです。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。自分の経験、蓄積してきたもの、成し遂げてきたものをいくら積み重ねても、いくら年を重ねても所詮それらは6節にあるように「肉から生まれたものは、肉にすぎない」のだ、という現実を乗り越えることはできません。
4.霊による新生:人は霊によって「新しく生まれること」ができるのです。霊のバプテスマを受けて、「新生」し、その証として、信仰の服従の第一歩として、水のバプテスマを受けることで「神の愛の支配の中に生きること」ができます。
5.新しいことと古いこと:新しく生まれることは、今までの自分の歴史、知識、経験を全く無駄にし、捨ててしまうことではなくそれらが全く新しい光の中で位置づけられ、意味づけられることです。「そうだったのか」と息づいてくるのです。
6.その後の「ニコデモ」:ヨハネによる福音書の19:38-40
7.十字架のキリストを見上げる:有名な「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」はもう何度も説教で取り上げましたので取り上げません。その導入となっている、奇妙な荒れ野のヘビの話に触れます。荒れ野で毒蛇に悩まされ、噛まれた者たちが、モーセの造った青銅で蛇を見上げて癒されたように、天から下り、天に上げられたイエス・キリストを見上げ、仰ぐことによって救いが与えられます。スポルジョンの証言とイザヤ45:22参照。(松見俊)