1: 救いの確信
わたしたちはイエス・キリストの血と肉によって救いを得ています。ここでは、【イエスの血によって聖所に入れる】(ヘブライ10:19)、【御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった】(ヘブライ10:20)と教えます。主イエスの血と肉によって新しい生きた道が開かれたのです。ここでは、この救いのことを「聖所に入れる」とも表しています。
聖所については9章において記されています。9章では、地上の第一、第二の幕屋を超えて、キリストが、この世のものではない、完全な幕屋において、ご自身の血によって、永遠の贖いを成し遂げられたことを教えます。
今日の箇所は、この話の続きとして、【イエスの血によって聖所に入れると確信しています。】(ヘブライ10:19)と言います。この聖なる場所、神様と向き合う場所に、イエス・キリストの血によって、すべての人が入ることを赦されるとされたのです。人間と神様との関係には大きな壁、ここでいえば、「垂れ幕」があったのです。神様と人間の間には、人間の力によっては越えることのできない大きな断絶があったのです。この断絶を越えるためにイエス様の血は流されたのです。
そして、ここでは、この新しい生きた道が開かれたことを「確信している」と言います。ヘブライ人への手紙は疲弊しきっていたとされる人々に向けられた、励ましのメッセージだと考えられています。救いはただ神様の一方的な恵みとして与えられている。だからこそ「確信できる」のです。どれだけの困難があろうとも、どれだけ自分の弱さを突きつけられ、無力だと感じていたとしても、「あなたがたには、新しい道が開かれている」と励まし、語り続けているのです。
2: 大祭司イエスがおられる
【更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。】(ヘブライ10:21-22)
イエスの血と肉によって新しい命の道は開かれました。そして、更に偉大な祭司がおられるとするのです。ここでは人間を導き、執り成しの祈りを祈り続けてくださる、大祭司イエス・キリストがおられることを語るのです。神様は、ただ一回の決定的な救いの御業を成し遂げられた。それはいけにえとしての「イエス・キリスト」と言ってもいいでしょう。その救いの御業を「信頼すること」「神に近づくこと」、「揺るがぬ希望を保つため」に祈り続けて下さっている「大祭司イエス・キリスト」がおられるのです。
私たち人間は、様々な状況に置かれて生き続けています。人生の一つ一つの出来事に、悩み、苦しみます。神様側からの救いをどれほど信じようとしても、私たちは、迷い、神様の救いが見えなくなるのです。ここでは、そのような者たちに対して大祭司イエスがおられることを教え、励まします。大祭司イエス様のことを、これまでの箇所において、私たち人間の弱さに寄り添われる方として、(ヘブライ4:15、5:9)同時に「永遠に完全な者」(ヘブライ7:26、28)として語ってきました。
私たちは、どれほどの苦しみや痛み、迷いの中にあったとしても、そこにイエス・キリストが共にいて下さることを覚えたいと思います。
3: 愛と善行に励む
【互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。】(ヘブライ10:24-25)
私たちは、救いを得た者として、またイエス様の祈りによって守られている者として、どのように生きることができるのかを考えたいと思います。ここでは、互いに愛と行いを持って、励ましあうように勧められています。25節から当時、集会に集まることを怠った者たちがおり、それが習慣のようになっていたことが推測できます。
今の私たちに当てはめてみれば、新型コロナウイルスによる感染症の拡大に対応するためのインターネットによる配信などが構築されました。これらは人間が知恵を出し合い、新型コロナウイルス感染症に立ち向かった結果です。ただ、この出来事によって、そのように離れていることが習慣となってしまったことも確かです。オンラインによる落とし穴は、集まれるけれど、その労力を減らしたいとして集まることを辞めてしまうこと、そしてお互いのことを思い、生きることが薄れていくのです。
この言葉を新改訳聖書ではこのように訳しています。【約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。】(ヘブライ10:23-25)(新改訳聖書)
ここでは「習慣に倣って集会を怠ったりせず」という言葉を、「いっしょに集まることをやめたりしないで」と訳しており、「一緒に集まること」の大切さを語っています。ここで言いたいのは、ただ集まるだけではありません。集まり、互いに励まし合うことです。そして、いずれ来る神の国の到来を共に見て、希望を持つために集まることを目的としているのです。何よりも、集まることの意味を覚え、喜びや痛みを分かち合う喜びを感じていきたいと思います。
そのうえで、私たちの教会も、これから、年齢的に、健康的に、様々な理由から、集まることが難しい方々が増えていくと考えられます。集まりたくても集まれない中で、共に励まし合い生きる方法を考えていく必要もあるでしょう。(笠井元)