1: 生きるのに必要なもの「祈り」
今日はいわゆる「主の祈り」とされる祈りを、イエス様が弟子たちに教えられた場面となります。この祈りを、2000年経った今、私たちも礼拝で声を合わせてお祈りしているのです。今日の1節では、まずイエス様が祈っている姿があります。その後、イエス様は祈りを教えて下さいました。 「祈り」について、アウグスティヌスは「祈りとは息をすることだ」と言っています。つまり、私たちが生きるために祈りは、必要不可欠なものであるということです。息をしないと、私たちは命を落とします。同じように、祈りは生きるために必ず必要なのです。私たちは、それほどに、祈りを大切にし、求めているでしょうか。
人間は誰もが祈っています。それはクリスチャンではなくてもです。八百万の神様を信じる日本人は、あらゆるところで、あらゆるものに祈っています。交通安全から健康のための「無病息災」など、様々な祈りをしています。ある意味、キリスト教の人よりも祈っているかもしれません。祈りは、日本だけではありません。どの地域、どのような文化においてもあるとされます。人間は「祈る生き物」とも言われています。それほど人間とは祈る者なのですが、自分が生きるために祈っていること、それほど祈りが必要だということは認識していないのです。人間は祈る者です。そして祈りを必要とする者なのです。
カトリックの祈りの本には、生活の中の祈りとして「食前の祈り」「食後の祈り」「初めの祈り」(何かを始める際にするお祈りです)、「終わりの祈り」(何かを終えるときの祈りです)、「目覚めの祈り」「朝の祈り」「お昼の祈り」「夜の祈り」「床につくときの祈り」とありました。そのほかにも「種々の祈り」として、「父母のための祈り」「子どものための祈り」等、色々な祈りがありました。
私が神学生の時は、全寮制で、皆、牧師や教会の教師になろうと思ってきた人ばかりでしたので、朝は5:30から早々天祈祷会、6:00から早天祈祷会、その後食事で、食前の祈り、食後の祈り・・・と、いつどこでもお祈りがありました。寮には各階に3つだったと思いますが、祈りのための小さな部屋がありました。時々、行方不明になった人がいると、大抵は、そこに入っていました。ただ、一度、あまりにもこの「祈り」という言葉が、軽々しく使われているのではないか・・・と問題になったことがありました。寮の中では、挨拶代わりのように「さようなら」と言うときに「祈っているから・・・」と言い、特に相手の話を聞かなくても、相手のことを思いもせず、「あなたのために祈っている」と言っていないかと考えられたことがありました。とにかく毎日、どこでもお祈りをする中で、祈りを「大切なこと」として考えているか問われたということです。それこそ息をするように祈っていて、「神様に向き合うこと」として祈っていないのではないか・・・という問題が起こったのです。「祈っている」と言うなら、「まず相手の気持ちを知り、起こっている出来事に真摯に向き合い、思う中で祈りましょう」といった話し合いが行われたこともありました。
私たちはお祈りすることを、生きるのに大切なこと、必要なこととして求めているでしょうか。私たちは、自分が生きるのに必要なものは、祈りではなく、もっと違うものだと考え、求めてしまっているのではないでしょうか。実際に祈らなくても人間は、肉体的には生きていることができるものだと考えてしまい、「必要不可欠」なことだとまでは思わないかもしれません。そのような私たちに、イエス様は「祈り」を与えて下さったのです。私たちのことをいつも考えてくださっているイエス様が下さった祈り。それが「主の祈り」です。祈りが、私たちが生きるのに必要なものだからです。私たちにとって、祈りは生きるのに必要不可欠なものなのです。
2: 祈りを求める弟子たち
今日の箇所では、弟子の一人がイエス様に【「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」】(11:1)とお願いしたのです。イエス様の弟子たちはユダヤ人でしたので、ユダヤ人としての祈りは知っていたでしょうし、祈ることができないわけでも、祈る言葉がわからないわけでもありませんでした。そのような弟子たちが祈りを求める姿は、「へりくだり」の姿として見ることもできるのです。この少し前に登場する、「律法の専門家」はイエス様を試したのです。聖書に登場する、ファリサイ派の人々、律法学者の人々は、「あなたの教えなど関係ない。むしろあなたは間違っている。悪魔の仕業だ」としました。そのような者たちは「自分たちにあなたの祈りなど必要ない・・・」と言ったでしょう。それに対して、弟子たちは、自分たちから、イエス様の祈りを求めたのでした。
イエス様の祈りの特徴は、最初の一言「父よ」という言葉にあると思うのです。「父よ」。これはアラム語で「アッバ」という言葉となり、まだきちんと言葉を発音できていない幼児が父親を呼ぶ言葉となります。イエス様の祈りは、幼児が父を呼び求めるように、神様を信頼して祈る相手として呼びかけることが許されているということです。「父」という言葉であることは、現在は問題視されています。「父」にそれほどの信頼することができないという人もいれば、「父親」との関係が完全に破綻してしまっているという人もいます。そのような人にとってこのように「父よ」と祈ることは苦痛となる場合もあるかもしれません。私としては、神様に祈る時に、その言葉は「父」と呼ぶ必要はなく、「神様」でいいのだと思います。ただ、幼児が、ただただ信頼して呼びかけるように、私たちも神様に呼びかけることができる。私たちと神様はそのような関係に置かれているということを覚えたいと思います。
弟子たちが求めたのは、このイエス様と神様との関係です。ユダヤの人々にとっての神様は、もっと遠く離れた方、畏れるべき方でした。この神様への畏れという感覚は、今の私たちが持つべき一つの感覚でもあると思います。神様の赦し、愛だけを信じてしまい、義なる神様への畏れという思いが、今の私たちには少し、足りないのではないかとも思われるときもあります。それこそユダヤの人々は、この神様への畏敬の念をきちんと持っていたのです。ただ、そのため、神様と自分という関係はとても遠く、自分で「神様」と祈っていいと思えない状態だったのです。
そのような社会の中で、イエス様は「アッバ、父よ」と祈ったのです。この神様のすべてを信じ、信頼した者としての祈り、その関係性の中での祈りを弟子たちは求めたのです。弟子たちは、イエス様に「祈りを教えてください」とお願いしました。それは「神様との関係を教えてください」という意味で求めたのです。
3: イエスを通した祈り
この弟子たちの願いに、イエス様は答えて下さいました。【そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。』」】(ルカ11:2)神様に「アッバ」と呼びかける祈り。神様を信頼し、その関係に入れられていることを信じた、この祈りは、イエス・キリストを通してこそ成立する祈りなのです。「父よ」と「アッバ」と呼びかけることは、イエス・キリストと神様という関係の上に立つ者とされたときに、私たちにも許されている呼びかけです。神様は、この世にイエス・キリストを送ってくださいました。それは、このイエス・キリストによって、私たち人間と向き合うためです。
ローマの信徒への手紙ではこのようにあります。
【神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。】(ローマ8:29-30)
「御子」、つまりイエス・キリストは、「多くの兄弟」、つまり私たち人間の「長子」となられたのです。神様は、このイエス・キリストを長子とし、その兄弟姉妹として、私たちを召しだし、私たちを義なる者としてくださったのです。このイエス・キリストに繋がる者として、私たちは、「神の子」とされたのです。私たちは、この父なる神と子なるキリストという関係に入れられる者として「アッバ」と呼び求めることが許されている。そのような神の子として神様に祈ることが許されているのです。私たちは、この関係に入れられた者として、このイエス・キリストが与えてくださった祈り、「主の祈り」を祈るのです。
4: 中心に神を置いた祈り 「願い」
イエス様の教えられた祈り。その内容は、「願い」ということができるでしょう。「祈り」というものを考えた時に、その内容は「願い」だけではなく、「感謝」「悔い改め」、そのほか色々なことを祈ります。心の思いをさらけ出して、神様に叫ぶ。それが祈りです。
皆さんは、祈りの時に、どのような内容を祈るでしょうか。カトリックだけでなく、プロテスタントにもいくつもある、祈祷書ではどちらかというと心が「感謝」へと向けられていくための言葉が多くなっているように感じます。「神様、ありがとうございます」この言葉が、神様と私たちの関係を正しい関係に導く一つの合言葉のようにも感じます。ただ、この主の祈りの言葉は、基本的に「願い」が中心となっています。「御国が来ますように」「必要な糧をお与えください」「私たちの罪を赦してください」「私たちを誘惑に遭わせないでください」という「願い」を中心とした祈りなのです。これが主の祈りです。
「願い」というと、どこか自分の欲求を満たすために、願い事を叶えるために神様を利用するようなイメージとなります。「試合で勝てますように」とか「テストでいい点がとれますように・・・」など、これらの祈りがいけないわけではないと思います。このような思いを神様に向けて祈ることも一つの大切な姿なのだと思います。ただ、今日のこの主の祈りの中心にある願いは、「神様、この世に来て下さい。そして隣に来てください。私は罪ある弱い者です。だからあなたが隣で助けてください。私たちに命を与え、命を守り、救い出してください。」という願いであり、これは、まさに神様を自分の心の中心に置いた、祈りなのです。
私は、困難に出会うとき、いつも「御国が来ますように」と祈っています。この世にあるどれほどの困難も、神様は越えて来て下さる。必ず神の国が来る。この未来を見ることで、希望を持つことができるのです。どれほどの困難、どれほどの苦難が目の前にあったとしても、いずれ神様が御国を送ってくださる。つまり神様の愛と平和の完成の時が必ず来るということです。だから、たとえ何があろうとも、神様が私を愛して、必ず平和と愛の時を送ってくださるということを信じることが出来るとき、そこに希望を得るのです。
神様を中心に置くこと。それは、まさに神様の愛を受け取った者、イエス・キリストが私たちと共にいてくださることを受け入れたことになります。つまり、この主の祈りを祈るとき、私たちは、まさに信仰を持つ者として祈っているのです。この主の祈りを、日々祈っていきたいと思うのです。
5: わたしたちの祈り
最後に、この祈りのもう一つの特徴として「私たちの祈り」という点から見ていきたいと思うのです。ここでイエス様が教えられた祈りは、「わたしたち」が主語となった祈りです。主の祈りはただの個人個人の祈りではないのです。「わたしたち」のために願う祈りです。皆さんはこの「わたしたち」と言ったときに、その中に、誰が入っているでしょうか。愛する人、家族、友人などは入っているでしょうか。あまり関心はないけれど、学校や会社で一緒にいる人は入っているでしょうか。教会の兄弟姉妹は入っているでしょうか。この辺までは、ほとんどの人が入っていても問題ないと思います。皆さんにも一人くらいはおられると思うのですが・・・憎む人、赦すことができない人、顔も見たくない人を入れて「わたしたちに・・・・」と祈ることができるでしょうか。
イエス様は、「あなたの敵を愛しなさい」と言われました。【「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」】(マタイ5:43-44)
「わたしたちの祈り」。イエス様が教えて下さったこの祈りは、まさにこの私たちの「敵」「憎む者」も含まれた祈りとなるのです。皆さんは、この「主の祈り」を祈ることができるでしょうか。
そして、同時に、この「わたしたち」の中に、入ってくださった方、それがイエス・キリストです。神の子、イエス・キリストが人間となられたということは、この「私たち」の中に、イエス・キリストが入ってくださったということなのです。私たちは、祈りを必要としているとともに、祈られることも必要としています。誰かに思っていただくこと。誰かの支え、誰かに愛されていることを必要とする者です。
人間の愛の反対は「無関心」と言われます。つまり、愛されていないことは、無関心になられるということになります。私たちは、誰からも無視をされる時、つまり「孤独」となる時、愛されていない者と感じるようになります。誰からも愛されていない。自分はこの世界で孤独である。一人ぼっち。これが人間の生きる意味を見失わせます。今日の箇所は、そのような私たちに、イエス様は私たちを覚えて、いつどこにいても、祈ってくださっていることを教えるのです。私たちは、このイエス・キリストのすべての者を包み込んだ祈りに、入れられているのです。それこそ、私たちが、愛することができないような人に対して、私たちがどれほど受け入れられなくても、主イエス・キリストが、その人のことを愛しておられるのです。そのことを止めることはできません。
主が祈っていてくださる。私たちは、この主イエス・キリストの祈りに委ねたいと思うのです。これが「私たちの祈り」です。私たちは、この全世界を包み込む、イエス・キリストの祈りに委ねて、祈り続けていきたいと思います。(笠井元)