1: 神の恵みを必要としている者
これまでイエス・キリストによる福音について語られてきました。特に、キリストという大祭司が、共にいてくださること、そしてまた自らを献げることによって救いを与えてくださったことを語ってきました。(ヘブライ10:10,14,20)私たちは、神様の一方的な愛の御業、イエス・キリストが献げられるということによって、新しい生きた道が開かれたのです。26節にある「真理の知識」とは、このイエス・キリストによる救いを意味するのです。
その上で、26節では「キリストによる救いを知り、受け取った後にも故意に罪を犯し続けるならば、その罪のためのいけにえは、もはや残っていない」とします。ここでの「故意の罪」という言葉の意味としては、様々な迫害に対してこれまで耐えてきたにも関わらず、イエス・キリストによる神様の救いを捨ててしまうことを指しています。ここで伝えたいことは、神様の裁きに恐怖して、神様から離れることのないようにと教えているのではなく、神様の恵みを受け取ることをやめないようにと教えているのです。
私たちは、キリストを信じたからといって、正しい人、清廉潔白な人となることではないのです。むしろ、自分の弱さを知り、だからこそイエス・キリストが必要であり、神様の愛を必要とする者だと受け入れていくのです。人間は、ただ神様の一方的な恵みとして救いを与えられたのです。私たちは、この神様の恵みを必要としているのです。
30節からは「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいこと」だと教えます。神様は生きておられます。私たちは生きる神の手に落ちるのです。
2: 過去を振り返る 神様の恵みに留まり続ける
この時の読者たちは迫害を受けてきていました。「あざけられ」「見せ者にされ」「財産を奪われた」のです。言葉による侮辱、身体的虐待、財産の損失といった、様々な形での迫害を受けたのです。このような人々に「このような迫害にも耐えていた初めのころを思い出してください」と励まします。ここでは、そのために過去に「喜んで耐え忍んだ」ことを思い出すように勧めます。過去を振り返ること、歴史を振り返ることの意味を考えさせられます。
私たちは、大きな困難に陥ったときに、これまでの神様の恵みを忘れてしまうことがあります。これまで何度も困難を乗り越えてきた。それは自分で乗り越えてきたのではなく、神様に守られてきたのです。
長い歴史を振り返れば、キリスト教徒は、最初はこの読者のように、ユダヤ教の人々、ローマ帝国から迫害を受けて、信仰を持ち続けることが困難な中で生きてきたのです。日本にキリスト教が伝えられた後、キリスト者は大きな迫害を受けて、いわゆる隠れキリシタンとして、細々と生きてきたのです。今の教会をこれまでのキリスト教の長い歴史の中の一部として見る時に、福音に留まり続ける希望を見ることができるのです。
35、36節では、「確信を捨ててはいけない」「忍耐が必要だ」と教えます。忍耐は、神様の一方的な恵みを信じ続けること、その確信を捨てることなく、留まり続けることです。私たちは神様が私たちを愛してくださっているという恵みに留まり続けたいと思います。
34節では「いつまでも残るものを持っていると知っていた」とします。神様の恵みがなくなったり、減ってしまったり、変えられてしまうということはないのです。いつまでも変わることなく残るものは神の信仰と希望と愛です。
3: 信仰によって命を確保する 神の国を見る
37節、38節はハバクク書の2:3-4からの引用とされています。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。」と教えます。キリストによる終末の希望を持ち続けること、神の国を見失ってしまうことのないように教えているのです。
「諦めること」は、大きな誘惑です。私たちが希望をもって生きることをやめて福音に立ちつづけることをやめてしまうとき、神様の恵みを喜ぶことから離れてしまうことになるでしょう。そして、私たちは、そのように誘惑されているのです。
39節は、口語訳のほうが分かりやすいと思いました。【しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。】(ヘブライ10:39)(口語訳)信仰に立って、命を得るのです。信仰に立ち続ける者とされたいと思います。当時の人々は、信仰を捨てるところまで追いつめられていたのです。だからこそ、信仰を捨てて滅びるのではなく、信仰に立ち続けることを教えているのです。
それは、私たちが、頑張って何かをするのではなく、私たちが神様を愛する者となるのではなく、ただただ、神様に愛されているということを信じて生きるということです。この神様の恵みに留まり続けること。これが、私たちの生きる道。命を得る道です。(笠井元)