東福岡教会

Instagram

特別集会

子どもクリスマス会

12月21日(土)

13:30~15:00

クリスマス礼拝

12月22日(日)

11:00~12:00

クリスマス・イブ礼拝

12月24日(火)

19:30~21:00

 

東福岡幼稚園

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2024.9.1 「神様に求め続ける」(全文) ルカによる福音書11:5-13

1:  神を神とする祈り

 今日のテーマは「求めなさい」ということとなります。そのうえで、今日の箇所の前、11:1節からの言葉を見ていくと、「求める」ことの大切さを見ることが出来るのです。まず、1節では、弟子の一人がイエス様に祈りを求めたのです。私が弟子であったとしたら、「祈ることも出来ないのか」と思われてしまうのではないか・・・と思ってしまい、なかなか言い出せないことではないかと思うのです。しかし、この弟子の求めがあったからこそ、今、現在までも続く、主の祈りをイエス様は与えてくださったのです。弟子がイエス様に「祈りを教えてください」と求めたこと・・・ここからすべてが始まったのです。そして、イエス様は主の祈りを教えてくださいました。この祈りを見ていくと、「父よ、御名があがめられますように・・・」から始まり、「御国が来ますように・・・」と続き、そして「必要な糧を与えてください、罪を赦してください、誘惑に遭わせないでください」と、まさに願い、求める祈りとなっているのです。これがイエス様が教えて下さった祈りです。

 そしてまた、ここで、イエス様は、私たちが願うべきものを教えて下さっているのでもあります。私たちは色々なものを欲しています。名誉、財産、権力・・・など様々なものを願い求めています。ただ、ここでは、私たちに本当に必要なものは何なのか・・・を、イエス様が教えて下さっているのです。イエス様はまず「父よ」と呼びかけ「御名があがめられますように」と願うように教えられました。これは、神様を神様とすることができるように求める祈りです。「神」を「神」とする。そこから、私たちは本当の命の尊さを知り、その恵み、救いを知るのです。

 

2:   助けを求める

そして、今日の箇所となります。ここでは、イエス様が一つのたとえ話をされるのですが、イエス様は「あなた方のうちのだれか・・・」と言われます。たとえ話で、「あなた方のうちのだれか・・・」と言われることはとても珍しいことです。この言い方は、弟子たちに、「どこかのだれか」「自分たちとはあまり関係のないこと」とならないように、自分自身のこととして聞くために言われたのではないかと思われるのです。それほどに、この求めることの大切さがあるのです。

イエス様のお話は、真夜中に旅行中の友達が来たことから始まります。真夜中に旅行中の方が訪ねてくるということ自体が、今の時代では非常識に思えるかもしれませんが、イスラエルはとても暑い場所でしたので、昼間のとても暑い時よりも、夜に移動することがよくあったそうです。今は日本でも、温暖化によって夏になると昼間は外で遊ぶことができなくなってきています。今年は福岡では、雨が続いたと思えば、そのあとは、まったく雨が降らなくなり、とても暑い日々が続き、幼稚園では、子どもたちが外で遊ぶということがなかなかできませんでした。皆さんも、お買い物や、散歩に行くとしてもお昼よりも夕方の方がよいと思われるのではないでしょうか。世界では毎日40度を超えて、山火事の災害が起きてもいます。そのうち、夜に行動し、昼間は家に閉じこもるといった生活になることが普通になるのではないかとも思わされるほどです。ただ、夜中に旅行の人が来た時、この人は、もてなす準備が出来ていなかったのです。

この旅行中の人をもてなすというのは、ユダヤの伝統として、当然のこと、常識のこととしてありました。しかし、ここでは、当然しなければならないことができない状態だったのです。そういう意味では、この人の備えが甘かった、準備不足で、すべきことができていない状態であったのです。本来すべきこと、しなければならないことを、することができていない状態であることは、この人のこの時の生活自体が乱れていて、よい状態ではなかったと考えられるのです。

 私たちにおいても、生きていく上でしなければならないこと、すべきとされていることがあります。いわゆる社会常識といったものは、それぞれの社会、文化、時代によっても違うものだと思いますが、この時、この人は、その社会常識である、旅行の人をもてなすということができない状態にあったのです。それは、ただこの人が怠け者であったとも考えられますが、それよりも、「何も出すものがないのです」とあるように、この人は、自分が食べるものもままならない状態であった。そして、それでもどうにか自分のところに立ち寄ってくれた友人のためにどうにかしたいと願ったのではないでしょうか。そしてそのため、この人は、友人に助けを求めに行ったのです。

 この友人に助けを求めに行く行為は、とても重要なことでしょう。自分ではどうすることもできない困難にぶつかった時、皆さんはどのようにされるでしょうか。多くの人は、まずは自分だけでどうにかしようとすると思います。それでもどうにもできない時、私たちはどうすればよいのでしょうか。自分だけでは、どうすることもできなくても、恥ずかしいから、知られたくないと思われる人もいます。または人を頼りにすること自体が、よくないことだと思われている方もいるようです。しかし、聖書は助けを求めることを教えています。それはまず神様にすべてを打ち明けて、神様に「助けてください」と祈ることから始まります。そして自分ではどうすることも出来ない問題を、友人と共に分かち合うのです。 

教会は、お互いを「神の家族」「兄弟姉妹」とします。「兄弟姉妹」という呼び方自体は、現代においては問題もありますが、ただ、この言葉はお互いの関係を表すための言葉です。神の家族。生まれたところ、時代も違う者同士、年齢も、性別も、国籍も違うかもしれません。それでも、私たちは神様を土台としているというところで、強くつなげられている。それが、教会です。それは、お互いの弱さ、失敗、今ぶつかっている困難を分かち合うことができる関係になるということでもあります。現代では、プライベートを守ることが大切とされ、個人主義が加速し、また新型コロナウイルスの感染拡大により、人間関係は断絶されていきました。関わることを止めてしまったのです。私たちは、お互いに「助けてください」と言うことが難しくなっている。そしてだからこそ、聖書が、私たちに、自分の弱さ、困難にある中で、どうすることもできない苦しさ、痛みを分かち合うことを積極的にしていくように教えているのです。私たちは、お互いのことを知り、祈り合う必要があるのです。

 

3:   覚悟を持って求め続ける

 しかし、ここで、この友人が求めたものは、拒否されていきます。「もう真夜中だ、門は閉めた。あなたはあなたの持っているものでどうにかしてください」と言われたのです。これが一般的な対応でしょう。しかし、イエス様は、このお話の中で、「執拗に頼むこと」「求める」ことを教えます。 ここでいうのは、ただ、どれだけ迷惑をかけたとしても、自分の欲するものを求め続けて良いということではありません。人の迷惑など全く考えなくてよいということではないのです。ただ、どれだけ真剣に、どれだけの覚悟をもって求めるか、ということです。

 今日のこの箇所で、「もう戸はしめた。面倒をかけないでほしい」と言われて、諦めるならば、それほどまでのものだったということになります。つまり、自分のところに来ている友人をもてなすことを諦めたということです。諦めることは一つの誘惑となります。神様を神様とすることを諦める。神様に助けていただくことを諦める。神様に命を頂くことを諦める。私たちは、そのように諦めようと思うことがあるのではないでしょうか。これは私たちが神様を信じることから離れるように働く、誘惑の一つなのです。

 ここでは、この友人をもてなすために、どれほどの思いを持っているのか。それこそ、どれほどの覚悟をもって、この友人をもてなそうとしているのかが問われています。聖書は「執拗に」と言います。それだけ、この友人を大切に思う、強い思いを持って、求めれば、この求められている友人も、重い腰を上げるだろうということです。ここに本当の求める姿勢があるのだろうと思います。

 イエス様はこのように言われました。【そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。】(ルカ11:9-10)イエス様の思い。それは、それほどまでに真剣に、覚悟をもって、神様を求めなさいという思いでしょう。神様に祈り求め続けなさい。執拗に、覚悟をもって、祈り続けなさいと教えられているのです。そして、そのとき、人間が子どものことを考えるように、神様が私たちに目を向け、聖霊を送ってくださると教えるのです。

 

4:  神は最善のものを与えてくださる

 イエス様は、続けて13節ではこのように言われます。【「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」】(ルカ11:13

神様は聖霊を与えて下さいます。私たちの求めるもの、探すもの、門をたたいて開いて頂くもの、それは聖霊によって、教えられているのです。生活が苦しいからといって、神様に「お金をください」と言っても、お金が降ってくるわけではないのです。ただ、イエス様は【「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」】(ルカ11:3)と祈るようにと教えておられます。これが私たちの求めることです。私たちが「自分に健康を与えください」「心に平安を与えてください」と言っても、どのようになるかはわかりません。ただこの世に「神の国が来ますように」祈るように、求めなさいと教えられています。そして、この13節では、それらを求める者として導く、聖霊を与えて下さることを教えます。 

 私たちは何を求めるのか。何を目指すのか。その道を、この聖霊が導いてくださるのです。神様は私たちにとって、最善のもの、私たちに本当に必要な物を与えてくださる。そしてそれが何なのか、聖霊がいつも導いてくださるのです。私たちはこの聖霊を与えてくださるように祈り、求めていきたいと思うのです。それも、執拗に、覚悟を決めて、その命をかけて、求めましょう。私たちは、神様が、私たちにとって一番必要な物を下さることを信じて、祈り、求め続けていきましょう。 (笠井元)