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2024.9.8 「命の泉から水を汲む」(全文) ヨハネによる福音書4:1-15

 水は人間にとって必要不可欠なものです。少しの塩と水があれば人はかなり生きることができるようです。私はかつて家族でヨーロッパ旅行をしましたが、イタリヤ、スペイン、ポルトガルなど言葉が通じないホテルでは「水」を調達することが大切でした。水道水でお腹をこわすことのないように、「アクア ナチュラール シン ガス」「アクア ミネラール シン ガス」を繰り返しました。私たちの国では、9月は台風の影響があります。暴風雨は大きな被害をもたらしますが、海をかき混ぜ、豊かにし、また、水を与えます。主イエスは言われます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」今朝はイエス様の、この命に水に至る水についてのメッセージをイエス様とサマリヤの女性との出会いを通して味わってみましょう。

 

1.物語の導入(1~6節)

 ユダヤ人の指導者ニコデモとの出会いの物語から次の出会いの舞台を設定すべく、1-6節は新しい出会いの物語の導入部分です。イエス様とバプテスマのヨハネのバプテスマ運動、イエス様の弟子たちとヨハネの弟子たちの葛藤と関係についてはすでに何度かお話したので、今朝も割愛しまう。この導入部分では2つのことに注目してみましょう。イエス様一行はユダヤ地方を去り、故郷のガリラヤに帰ろうとされていました。聖書は「しかし、サマリヤを通らねばならなかった」(4a)と表現しています。ユダヤ人とサマリヤ人とは複雑な文化的、歴史的な葛藤から、9節にあるように、「ユダヤ人とサマリヤ人とは交際しないからである」いる通りです。ですから、普通は、サマリヤを避けて、あえて遠回りしていました。直線距離で、100キロ、徒歩で3日と言われていますが、ヨルダン川の東側ペレアを通り、デカポリスと呼ばれた地方を横切り、ガリラヤに入るわけです。福岡~門司まで行くのに、飯塚、田川を通っていくような感じでしょうか。しかし、イエス様はサマリヤに入られ、しかも、たぶんこの日を含めて三日間滞在されました。「サマリヤを通らねばならなかった」とはこれは神様の避けがたいご計画であり、「ねばならない=edei」とは、「縛られる」という意味です。ユダヤ人と対立していたサマリヤもイエス様の出会いの計画、福音の分かち合いの対象であったという意味でしょう。形は少し違いますが、マルコ8:31に「イエスはかならず多くの苦しみを受け、指導者たちから排斥され殺され、三日目に復活されていることになっている」という言葉に通じています。「しかし、サマリヤを通らねばならなかった」と「ねばならなかった」は未完了過去というかたちで、サマリヤに行くことは神の計画においては現在の続いて覚えられているとうことです。敵対的であったサマリヤ人は神の救いに入れられているのです。主は壁を超えて異邦人である私たちの処に来られます。皆さんが救いに与ることは神の計画なのです。

 もう一つ注目したいことは、6節に、イエスは旅に疲れて、ヤコブの井戸のそばに座っておられたということです。当たり前と言えば、当たり前ですが、「イエス様が疲れた」(kopiō)ということです。たぶん、このような表現は他の福音書には見られないと思います。この言葉はマタイ6:28では「思い悩む」11:28ではあの有名な「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」にも登場しています。ルカ5:5ではガリラヤ湖で夜通し漁をしたが何も捕れず「苦労したが」と言われています。私たちは日々の仕事、奉仕、配慮で「疲れます。私は日に何度の「ああ、疲れた」とつぶやきます。ですから、イエス様が疲れ知らずであったということより。「疲れた」ということに何とも言えない平安を与えられます。イエス様も疲れたのか!です。ここでは「旅に疲れた」と言われていますが、ユダヤからサマリヤへの旅で疲れたのでしょうか、旅の連続である人生にふと疲れを覚えられたのでしょうか。この導入部だけでも豊かなメッセージが読み取れます。イエスはサナリヤも救いに入れておられた、そのような広がりのある福音の分かち合いの旅に疲れを覚えられた。救い主は疲れを覚える人になられたのです。

 

2.「水を飲ませて下さい」私にはあなたが必要です!(7~12節)

 わたしは今朝読んでいる箇所で、サマリヤの一女性に「水を飲ませてください」と言われたイエス様に感激しています。「奇跡」ということがあれば、これは奇跡的出来事ではないかと思います。これはこの女性にとって予想外の言葉でした。昼の十二時頃だけに、誰にも会いたくない女性です。わたしが千葉県松戸で牧師をしていた時代、牧師館は会堂の二階にありました。牧師館と会堂の間の扉がないので、ある女性はカタカタ靴を鳴らし、二階まで上がってくるのです。ここはプライヴェートな場所であるから昇ってくるなと言っても私の顔を見に来るのです。先生、「寝坊したでしょう!」とニヤニヤ笑うのです。このサマリヤの女性は家庭環境の点で、だれにも会いたくなかったかも知れません。18節によれば、今まで五人の夫がいましたが、今の男性は同棲生活です。バツが悪くて、だれにも会いたくないので昼の一二時に水を汲みにきたのでしょう。まあ、昨晩からの汲み置きもあったのかも知れませんが、一二時に水くみにくるということは身支度や朝食の準備のための水くみを朝しなかったことを意味していたのでしょう。ところが井戸辺に男性がいて、「水を飲ませて下さい」というのです。ユダヤ人とサマリヤ人とは交際がない、原語でいうと同じ器で飯を食わないという意味ですが、あなたのその器に水を汲んで飲ませてくれと頼まれます。大体、外で男性が女性に声を掛けること自体が裂けるべきことでした。いくつもの壁を超えて、イエスは声を掛けたのです。

 イエス様はこの頼みごとを通して、女性の人格を受け留め、信頼し、頼っておられるのです。あなたも神に対して奉仕ができるよ、榎本保郎さんの「ちいろば」という本がありますが、「主がご入用なのです」と言われてイエス様をお乗せした子ロバのように、「あなたは必要とされている」と思っていりいろいろことを面白く展開する牧師さんでした。この女性はむろん、ロバではありませんが、「水を飲ませて下さい」と言われて、この女性は嬉しかったのではないでしょうか。「自分も必要とされているのか」と思ったに違いありません。大学の神学部の牧会学のクラスで、この個所から「人に何かを頼まれることは嬉しいことなのではないか!」「何かを頼むことも牧会なんだよ」と言いましたら、現在別府国際教会の牧師をされている酒井朋宏さんが、そんな聖書の読み方があるのかと感激されていました。私はそのような素直な酒井神学生に感激しました。何かを頼むことは、自分には欠けているところがあると語ることで、その人から愛の関係を引き出すことではないかと思います。私は長男でもあり、何でも自分でやってしまい、人に頼むことが苦手です。人から何か頼まれたら喜んでやりますが、なぜ、自分は人に頼むことが苦手なのでしょうか?自分には「欠けた処」がない、「他者の助け」は必要ないと思い上がっているのかも知れません。神の子であられるイエス様ですから、なんでもお出来になる。しかし、そのお方が「水を飲ませて下さい」と頼むのです。このようなことがお出来になる、ここに奇跡があり、愛があり、神のみ子がおられるのです。

 

3.生ける水へ

 この物語ではサマリヤの女性はムットしました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)と主イエスが言われたからです。おいおい、頼みごとをするわりには態度がでかいな!というごく自然な言葉でしょう。しかし、このすれ違いは水そのものから人を養う「賜物」(dōpea , the gift)また、体だけではなく、魂と体が一つになった人間を養う永遠の命に至る水の話へと道への話の転換を導き入れてる誘い水になっているのです。「生きた水」(hydōr zōn)とは人を生かす水であるとも理解できますが、また、living water, running water, fountain を意味しています。たんなる水溜まりの水ではなく、湧き水というか尽きることのない水です。女性は不思議に思います。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供も家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」(1112節)この反論もごもっともです。今はユダヤとサマリヤは友好関係にはないし、ユダヤ人はエルサレムを中心としていますが、わたしたちサマリヤ人もれっきとした伝統を持ち、あのヤコブ=イスラエルの伝統の中にあるのだと言うのです。これは彼女の誇り、尊厳に繋がる話です。しかし、ここに実際、ヤコブより偉大なお方、ユダヤ人とサマリヤ人、そして全世界を包み込むお方、神の独り子であるイエスがおられるのです。井戸の水からいのちの水であるお方へと目を移すようにイエス様はこの女性を誘われます。

4.主イエスの与える水は、その人の内で泉となる

 13節の言葉は強烈な言葉です。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。』あのニコデモに向かって「肉から生れたものは肉である。」と同じ主張です。肉である人間の経験の延長線上に目を向けるのではありません。このようなものはいかに優れたものであっても「肉」であり、「この水を飲む者はまた渇く」のです。「しかし」、この「しかし」が重要です。ここに信仰の飛躍が必要です。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ここで永遠の命と言われています。ギリシヤ語には「いのち」に当たる言葉が二つあります。ひとつは生物学的な命で、「バイオ」(bios)です。身体と感情と知性のバランスというかバイオリズムを考えたり、一日の歩いた歩数とか歩幅とかバイオに関するデータをスマホで見ています。このようなバイオに対してヨハネやパウロが用いる「ゾーエー」を用います。フィリピ2:16ではよこしまな曲がった時代の中で「命の言葉」(logos zōēs)をしっかりと保つでしょうと言われています。

 イエス様が与える水は湧き出る泉です。わたしは、中学生時代は登山部でした。いまでは足が得歩く階段の上り下りもきついのですが、山登りは楽しかったです。わたしの時代は山登りの間は水を飲まないようにと教えられ、いまでは水を補給するようになっており、時代によって考え方は変わります。ある時、山を下りて随分あるきまして喉がカラカラでした。すると冷たい水をやかんに入れて一杯10円で売っていたのです。喜んで一杯買って喉を潤し、100メーター位下るとなんとそこに小川が流れていました。「しまった」と思いましたが、流れる水、泉と部分的な水(still water)とは違います。主イエスが与える水は、「永遠の命に至る水がわき出る(spring water)」と言われます。水源である神と直結しています。

 この女性は言います。「主よ、渇くことのないように、また、ここくみに来なくてもいいように、その水を下さい。」と願いました。多少、横着な想いであり、多分、人はいつも渇くのでしょう。しかし、イエス様が与えてくださる水は水源と直結しており、湧き出る泉のような水を与えて下さるのです。私たちもこの点では女性に倣い、「その水を下さい」と祈りましょう。イザヤ55:1を読んで終わります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。…なぜ、糧にならぬもののために銀を謀って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。… 主を尋ね求めよ、見出しうるときに、呼び求めよ、近くにいますうちに。」(イザヤ55:126

 

 祈り

 

 鹿の谷川の水を慕い求めるように、あなたを慕い求めます。私たちが乾くとき、あなたからの水で癒やし、穏やかに生きられますように。(松見俊)