水は人間にとって必要不可欠です。中心テーマは命を与える「水」です。主イエスは言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」今朝はイエス様の、この命に至る水について、イエス様とサマリヤの女性との出会いを通して考えてみましょう。
1.物語の導入(1~6節):イエス様一行はユダヤ地方を去り、故郷のガリラヤに帰ろうとされています。聖書は「しかし、サマリヤを通らねばならなかった」(4節a)と表現しています。ユダヤ人とサマリヤ人とは複雑な文化的、歴史的な葛藤から、「ユダヤ人とサマリヤ人とは交際しない」ので、普通は、サマリヤを避けて、あえて遠回りしていました。「通らねばならない」とはサマリヤ人もイエス様の出会いの計画、福音の分かち合いの対象であったという意味でしょう。もう一つ注目したいことは、6節に、イエスは旅に疲れて、ヤコブの井戸のそばに座っておられたということです。私たちは日々の仕事、奉仕、配慮で「疲れます」。ですから、イエス様も「疲れた」ということに何とも言えない平安を与えられます。人となられた神のみ子です。
2.「水を飲ませて下さい」(7~12節):主イエスはサマリヤの一女性に「水を飲ませてください」と言われます。「奇跡」ということがあれば、これは奇跡的出来事です。この頼み事を通して、主は、女性の人格を受け留め、信頼し、頼っておられるのです。あなたも神に対して奉仕ができるよと。私にはあなたが必要です!と。
3.生ける水へ:サマリヤの女性はムットしました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)と言われたからです。「頼みごとをするわりには態度がでかいな!」しかし、このすれ違いは水そのものから人を養う「賜物」また、体だけではなく、魂と体が一つになった人間を養う永遠の命に至る水の話への転換を導き入れます。ヤコブより偉大なお方、ユダヤ人とサマリヤ人、そして全世界を包み込むお方、神の独り子であるイエスがおられるのです。
4.主イエスの与える水は、その人の内で泉となる:「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。』源泉と繋がっていない水は新たに渇きを覚える人間には限りがあります。人間の経験の延長線上に目を向けるのではありません。そのようなものはいかに優れたものであっても「肉」であり、「この水を飲む者はまた渇く」のです。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」私たちもその永遠の命に至る水を受け取りましょう(松見俊)