今日は敬老感謝礼拝となります。現在の社会は「少子高齢化社会」とされ、子どもが少なく、高齢者が多い社会となっているとされます。少子高齢化社会という言葉は、この社会に問題がある状況を表す言葉として使われるものとなりますが・・・確かに子どもが少なくなっていることは一つ大きな問題があると思います。ただ、高齢者が増えていることは、本当のところは恵みの象徴だということもできると思うのです。高齢者が増えている理由は色々とあると思いますが、一つには医療の発展によるもので、それにも問題もあるかもしれませんが、恵みと言うことができると思うのです。そして何よりも大きな恵みは、戦争が続く中では高齢者が増えることはないのです。青年、中年の者が、戦争に駆り出されて、高齢になる前に死んでしまう。そのような社会に高齢化はありません。高齢化の社会では、介護など様々なことが必要になります。ただ、それも平和があるなかでのことなのです。周りに青年、中年の人々が生きており、また高齢になるまで生きている方々がおられるからのことです。もちろん何歳になっても元気な方々もおられますが、それでも少しずつ体力は落ちていき、目は見えなくなっていき、耳も遠くなっていくものです。そのような中で年を取っていくことを喜べないことはあると思います。しかし、生きていること、神様に生かされていること。それは大きな恵みです。年を取ることができること、それはこの社会が・・・それなりにと言ってはおかしいかもしれませんが、平和だからです。私たちは、一日でも一秒でも、長く生きることが赦されていることを感謝しましょう。
1: 神よ、わたしを知ってください
さて、今日は詩編139編を読んでいただきましたが、とても素敵な詩なので、少し長いのですが、全文を読んでもらいました。この詩は、今から2500年以上も前に記された詩とされています。この詩が作られた時、イスラエルの民は、バビロニア帝国によって捕囚の民とされており、国も、家族も、財産も、すべてを失い、そしてそのアイデンティティも見失いそうになっていた絶望の淵にあった時なのです。そのような中で、詩人は、このように詠います。【主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。】(詩編139:1)ここでの「わたしを究める」という言葉は、別の言葉で言うと、「たとえ隠れていても、探し出し、見つけ出す」といった意味を持つ言葉とされます。すべてを失い、生きる意味、生きる目的も見失っていく中、それでもここでは、「神様は、私たちを必ず探し出し、見つけ出し、そしてすべてを知ってくださる・・・」と詠うのです。そのうえで、23節ではこのように詠います。【神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。】(詩編139:23)
最初に「神は私を究め、知っておられる」とし、そのうえで、最後に「神よ、私を究め、知ってください」と詠うのです。「神様・・・あなたは私を知っておられる。それがどこにあっても、私がどこに行こうとも、どれほど離れようとも、あなたは私を知っておられる。神様から逃げ出すことはできない。」このように詠いながらも、詩人は最後にもう一度「神様、私を知ってください」と願うのです。ここに、この詩人の強い願いを聞くことができるのです。この詩人が求めたのは、このこと・・・「神様に知っていただく」ことでした。私たちは神様から命を頂き、生かされています。その中で、私たちは何を求めて生きているでしょうか。この詩人は、何よりも、神様に知っていただくことを求めました。「神は私を究め、知っておられる」と詠いながらも、それでもこのことを求め続けたのです。この神様に知っていただくこと、これが、詩人の願い。この詩は、神様に知っていただくことを求め続けた「祈り」なのです。
2: 悩みを知ってください
先ほども言いましたが、この時、イスラエルの人々はバビロニア帝国によって、すべてを奪い取られ、滅ぼされ、絶望の淵に立たされていたのです。この詩人もまさに絶望の中にいたのでしょう。23節では、ただ「わたしの心を知ってください。」ということだけではなく、「わたしを試し、悩みを知ってください。」(139:23)と詠います。私たちは、誰もが、悩み、迷い、苦しみながら生きています。
今は、まだまだ暑い日々が続いていますが、この夏がだんだんと終わりに向かっている時期ともなります。学校も会社も夏休みが終わり、新しい日々が始まっていきます。学校では9月から2学期が始まりましたが、この時期は、学生の自死者、引きこもりになる人がとても多くなる時期とされています。夏休みで学校から離れ、心穏やかに生活していたところから、急に毎日学校に行き、宿題が出され、勉強をしなくてはならなくなる。それだけではなく、多くの人々と毎日出会って、一緒に居なければいけない。そのようなことが大きなストレスとなり、学校に行くことが辛くなっていくのです。また、もはや、毎年のこととなりますが、まだまだ暑さが続いています。この暑さもそのような心が疲れていく一つの原因ともされています。なんとなく、でも確実に、心も身体も疲れてしまっている。しかし、もはや夏休みは終わったのだから・・・と、社会は休むことを許してはくれない。そこから疲れ切ってしまうことがあるのです。私自身、毎朝、目覚めた時に、今日も命を与えられていることを感謝します。今日も生きていた・・・よかった。神様、感謝します。と思う一方で、これから始まる、今日、この一日を生きることの厳しさも感じるのです。今日も、一日を生きていかなければならないと思ってしまうこともあります。
先ほども言いましたが、今日は敬老感謝礼拝となります。この教会では75歳以上の方を敬老の対象者としていますが・・・、それは75年、またそれ以上、神様に命を養われ、生かされて、多くの恵みを頂いて来られた方々であり、同時に、日々、悩み、迷い、それでも神様の護りを頂いて、歩まれて来られた方々です。私は、この一日を生きる厳しさ、その一日の重みを感じるようになってから、本当に、一日、一年、そして今日は75歳としていますが、それ以上生きていることの尊さ、その命の重みというものをとても大きく感じるようになりました。生きていること。それが一分一秒でも生きていること。そこには大きな意味がある。そこには大きな神様の恵みが注がれているのです。確かに、私たちの歩む道は、喜びの時ばかりではありません。むしろ苦しい時、迷い、心を痛めている時の方が多いものです。
そのような中で、23節では、「わたしの心を知ってください。」、「わたしを試し、悩みを知ってください。」(139:23)と詠うのです。神様は、私たちの悩みを知り、そしてその重荷を担って下さっているのです。この、神様を抜きにして、今までの人生、そしてこれからの人生に本当の希望を持つことができるでしょうか。神様は私たちの悩みを知ってくださる方なのです。
3: 神様から逃れることはできない
詩人は7節からこのように詠います。【どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。】(詩編139:7-10)私たちがどれほど神様から離れようとしても、それこそ、陰府に降り、身を横たえようとも、神様はそこまで来て下さるのです。そして、それは逆に言えば、私たちがどれほど神様から逃れようとしても、私たちは神様から逃れることはできないということでもあります。
創世記の3章では、神様に造られた人間、アダムとエバが蛇の誘惑によって「決して食べてはいけない」と言われた、善悪の知識の木の実を食べてしまったことが記されています。(創世記3:4-10)
善悪の知識の木の実を食べた時、二人は、神様の顔を避け、木の間に隠れたのです。「知恵を得て、神のようになる」と言われ、神様との約束を破り、木の実を食べ、そして頂いたもの、それは、「神様の前から隠れる」という知恵でした。神様の前から隠れていくということは、神様との関係が壊れてしまったこと、命を失ったこと、希望を失ったことを意味します。
この詩人は7節で、このように詠います。【どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。】(詩編139:7)イスラエルは、神様から離れ、御顔を避ける者、神様の前から隠れる者として歩みだし、その国は滅亡へと向かっていきました。この詩人はまさに、その人間の弱さ、また愚かさ、そして無力さをよくよく知り、感じていたのでしょう。神様の言葉に従わず、神様の顔を避け、逃げだしても、どれほど神様から隠れていこうとしても、結局、神様から逃れることはできなかったのです。そして、どこに行こうとも、神様は、そこまで来て、私たちを放すことはなく、護り、支えていてくださるのでもあります。
11節からはこのように詠います。【わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。】(詩編139:11-12)
神様から逃げることはできない。それは、どれほど私たちが、自分にとって闇と思うところに立っていようとも、神様はその闇を闇とはしない。むしろその闇に光を与え、照らしてくださる。それが神であり、私たちを愛しておられる方なのです。私たちが、どれほど神様から離れ、自己嫌悪に陥り、自分の価値を見失い、自分を受け入れられなくなったとしても、神様は、私たちに光を与えてくださいます。どれほど苦しくても、迷っても、神様は、その道を照らしてくださる。私たちに「あなたを愛している」「あなたは私にとって必要な存在だ」と語ってくださる。これが、神様が私たちに与えて下さっている希望なのです。私たちは神の光に照らされて生かされているのです。その神に、この詩人は「私の心を知ってください。そして私の悩みを、その迷いを知ってください」と願い祈っているのです。
4: 神に造られ、記憶された者
今日の13節からは、人間が神様によって造られたことを詠います。神様は、人間の命を造られました。そして今も造り続けられて、日々私たち人間を養ってくださっているのです。私たちが生きている限り、悩みや迷いは尽きることはありません。しかし、この命が、神様の御業として、日々、新しく与えられて、生かされていると知る時、私たちは絶望から解放されるのではないでしょうか。私たちは神様に造り続けられ、生かされている。私たちの命は日々造り出されている。これが私たちの命です。年を取るということは、毎日、神様に新しく造られていくということです。今日は、これまでも、そしてこれからも、命を毎日造られて、生かされていることをお祝いするのです。そして、それは、その人の日々の苦労や、喜びを分かち合うと同時に、そのように命を造り続けて下さっている神様に、感謝をするときでもあります。この神様への感謝は、信仰の歩みの始まりになるのだと思うのです。自分ではどうすることもできない。自分の限界を知らされる中で、それでもそれ以上の力で生かされている。このどうすることもできない、神様の御業に目を向けるとき、それは神様を信じる信仰となるでしょう。
16節ではこのようにも詠います。【胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。】(詩編139:16)
神様は、私たちのその一日が始まる前から、私たちを記憶され、その書に記しておられるのです。ルカ10章でイエス様は【「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」】(ルカ10:20)と言われました。「あなたの名は天に書き記されている」。神様は、私たちのこの世での歩みが始まる前から、私たちのことを知り、記憶され、共にいてくださるのです。私たちのこれからの歩みがどのような道になるのかは、誰もわかりません。ただ、たとえそれがどのような歩みとなろうとも、私たちが神様に忘れられるということは決してないのです。神様はどのようなことがあろうとも、私たちのことを覚えていて下さっているのです。
以前、コラムにも書きましたが、私の出身教会の方が、先日、「膵臓癌」ということがわかりました。私は、いつもこのような連絡を受ける時に、なんとも言い難い気持ちになり、最初は、その現実に目を向けることができなくなります。一番苦しいのは自分の無力さを突きつけられるということです。「死」と向き合うときに、私たち人間にはどうすることも出来ない、無力さを突きつけられるのです。その虚しさ、無力感に絶望するしかなくなってしまうのです。しかし、神様は、そうではありません。神様は、何があろうとも、その者の存在を覚えておられる。そしてその存在、「私」「あなた」という存在は決して失われることがない。これが神様が記憶されるということです。それは、「死」をも越えて、なされる救いの御業、神様の愛の出来事なのです。これほどの希望があるでしょうか。神様は、私たちを忘れることはないのです。
5: とこしえの道へ
今日の箇所の最後は24節、【わたしを、とこしえの道に導いてください。】(詩編139:24)と詠い終わります。とこしえの道。それは神の御許への道でしょう。わたしたちはこの神の御許への道を歩いています。そして、それは命の道です。イエス様はこのように言われました。【「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」】(ヨハネ14:6)イエス・キリスト、この方こそ、とこしえの道です。主イエス・キリストは、私たちが悩む時、共に悩み、そして私たちが迷う中、そこに共にいて下さるのです。この方が私たちと共におられることにより、神様は、私たちの心を知ってくださる。そしてそのことを、私たちが知ることができるのです。私たちは、今、この主イエス・キリストを通して、とこしえの道を歩んでいることを感謝したいと思います。絶望の淵に立っていたとしても、苦難の中にあろうとも、私たちは、今、とこしえの道、命の道に生きている。このことを覚えて、これからも歩み続けていきたいと思います。そして、神様に、私たちの心を知ってください。この心の中にある悩みや迷いを聞いてください。と祈り続けて歩んでいきましょう。(笠井元)