「神よ、わたしの心を知ってください」
2024.9.15 詩編139編1節~24節
1: 神よ、わたしを知ってください
詩編139編は今から2500年以上も前に記された詩とされています。この時イスラエルの民はバビロニア帝国によって捕囚の民とされていました。イスラエルの人々が国も、家族も、財産も、すべてを失っていた絶望の淵にある時です。そのような中で詩人は1節では「神は私を究め、知っておられる」とし、23節では「神よ、私を究め、知ってください」と詠うのです。詩人が求めたのは神様に知っていただくことでした。
2: 悩みを知ってください
23節では「わたしを試し、悩みを知ってください。」と詠います。私たちは悩みながら生きています。教会では75歳以上の方を敬老の対象者としていますが、それは75年以上神様に命を養われてきた方々であり、同時に、日々悩み、それでも神様の護りを頂いて歩まれて来られた方々です。神様は、私たちの悩みを知り、その重荷を担って下さっているのです。
3: 神様から逃れることはできない
私たちがどれほど神様から逃れようとしても、私たちは神様から逃れることはできません。神様に造られたアダムとエバは善悪の知識の木の実を食べた時、神様の顔を避け木の間に隠れたのです。神様の前から隠れていくことは、神様との関係が壊れてしまったこと、命を失ったことを意味します。しかし「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」(139:11)とあるように、私たちがどれほど神様から離れても、神様は私たちに光を与えてくださいます。
4: 神に造られ、記憶された者
神様は人間の命を造られ、今も造り続けられています。年を取るということは、毎日、神様に新しく造られていくということです。命を造り続けて下さっている神様に感謝しましょう。神様は、私たちのその一日が始まる前から、私たちを記憶されて、その書に記しておられるのです。神様は何があろうとも、私たちの存在を覚えておられます。それは「死」をも越えてなされる救いの御業です。
5: とこしえの道へ
最後に「わたしを、とこしえの道に導いてください。(詩編139:24)と詠い終わります。とこしえの道は神様の御許への道です。そして、イエス・キリストこそ、とこしえの道です。私たちは、イエス・キリストを通して、とこしえの道を歩んでいることを感謝しましょう。絶望の淵に立っていたとしても、私たちはとこしえの道に生きていることを信じて歩み続けていきたいと思います。(笠井元)