1: 危険を顧みず行われたイエスの癒し
今日の箇所は、イエス様が悪霊を追い出している場面から始まります。イエス様は、口を利けなくする悪霊を追い出していました。現在、悪霊といいますと、どこか幽霊のような存在で、いるのか、いないのかもわからない、ただなんとなく怖いといったものと思われているのではないでしょうか。ここでの悪霊はなんとなく怖いとか、いるのかいないのかわからない、といったものではないのです。むしろその働きは口を利けなくするものであると、はっきりとしたものとなります。
今日の箇所で、群衆は、このイエス様の癒しの出来事が起こっているのか、起こっていないのかということは問題としていません。悪霊を追い出すという癒しは確かに起こっていた。そのうえで、このイエス様の癒しに対して、群衆が問題としたのは、「この人は、悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」としたこととなります。つまり、目の前で起こっている癒しは、悪霊の業である。それも悪霊の頭が悪霊を追い出していることだとしたのです。イエス様は確かに口を利くことが出来ない者を解放しました。そして、このあと【イエスは彼らの心を見抜いて】(ルカ11:17)とあるように、イエス様はこのとき、自分が癒しを行うことで、群衆がどのような心を持つようになるかということはわかっていました。癒しを行えば、人々が非難をしてくることはわかっていた。その上で、イエス様は悪霊を追い出し、癒しを行っていたのです。イエス様は自分が非難を受け、この世での立場が危うくなり、生きることが危険になっていくこと、苦難に向かうこと理解しながらも、目の前で苦しむ人を放っておくのではなく、その者に関わり、その痛みから解放することを選ばれたのです。ここに、イエス様の、この癒しに対する思いを見ることができるのです。イエス様は人々を愛された。だからこそ、自分自身の危険を顧みることなく、癒しを行ったのです。イエス様は、神の子として、何でもできるから、苦しみも痛みもなく、ただ目の前にいる人を癒し、自分の力を表していたのではないのです。イエス様がなされていたこと。それは、苦しむ者を目の前にして、自分自身が苦しむこと、最終的には命を落とすことになろうとも、その者を見放すことはなく、共に生きたということなのです。
この時、悪霊は口を利けなくするという存在でした。当時、口が利くことができないということだけではなく、何かしら病気にかかることは、自分、または親、そして先祖の「罪」によるものだと考えられていました。だからこそ、悪霊によって、口が利くことができないとされているということは、逆に、口が利くことができないからこそ、その人が悪霊に囚われていると考えられていたのです。そこには、生まれながらにして口が利けない人もいたでしょうし、また何かしらの病になり、口が利けなくなった人もいたでしょう。それらはすべて悪霊によるもの、そしてそれは、その人、またはその関係者の罪によるものだとされていた。そしてその人は、人間としての存在自体が認められず、社会から疎外されていったのです。イエス様は、そのような者たち、ここでは「口が利けない者」とされますが、肉体的にハンデを持つことで、罪を持ち、悪霊に囚われているとされた者たちに、癒しを与えていたのです。それは、その者たちが、この社会において人間として正しく理解され、生きることが赦されるための癒しであったのです。イエス様は、ご自身の危険を顧みることなく、人々が孤独で悲しみ、社会で差別され、生きる希望を失っている中で、その者のところまできてくださり、癒しを与えてくださったのです。これがイエス様の癒しです。
2: 口が利けなくなること
そのように考えると、この癒しの業は、ただ肉体的に癒されたということだけではなく、そのように社会のはみだし者とされ、悪霊にとりつかれているとされる者と、イエス様が共に生きて下さり、「差別」や「孤独」といったものから解放してくださったということでもあるのです。これがイエス様の癒しの本質です。人間が人間として生きるため、イエス様が共に苦しんでくださった。それは、私たちも変わらず持つ、弱さや苦しみを、イエス様が共に担って下さっているということでもあります。今日の箇所では、この悪霊の働きは、特に「口を利けなくする」という働きとして限定されています。イエス様は、確かに肉体的に癒しを与えて下さったのです。そしてそれは、同時に、この世で声をあげることができない者。自分は弱く、小さく、言葉を発すること自体が許されていないと思っている者。そのような者の隣にきてくださり、その存在を認め、声を発すること、意見を述べることが許されていることを教えてくださった。そして声をあげることができるようにしてくださったとも見ることができるのです。
現在は情報化社会とされ、SNSなどで、自分の言いたいことは、好きなだけ言えるようになっているようにも思えます。しかし、本当にそうでしょうか。皆さんは本当に言いたいこと、そして言わなければならないと思っていることを言うことが出来ているでしょうか。現在、日本での自死者は2万人とされています。20、30年ほど前は、3万人とされていましたので、その時から比べると少なくなったとされます。ただ、少し、少なくなったからといって、それは喜ぶことができることではないのです。自分で自分の命を絶つといった行為。一つの命が失われていくことは、本来はあってはならないことなのです。今、2万人もの人が、苦しみに耐えきれず、自分の命を絶っている。このことを私たちは重く受け止めなければならないでしょう。この自死の動機として多いのは、健康の問題、経済・生活の問題、家庭の問題などが挙げられています。ただ、どれほどの問題があろうとも、一番の問題は、その問題があり、苦しくて、追い詰められていることを、誰にも伝えられなくなり、一人で抱え込んでしまうことにあるのではないでしょうか。
人間の人生には、それぞれ様々な問題が起こります。皆さんも今も何かしらの問題、困難、トラブルなどを抱えているかもしれません。ただ、「自分は今、辛い状態なんだ。どうすればよいのだろうか。助けてほしい。」と声をあげることができれば、まず声をあげることだけで、その苦しみは半減し、また解決へと向かうために共に協力していくことができるのではないでしょうか。声をあげることができること。それは「一人ぼっち」ではないということです。逆に、声をあげることができない時、私たちは「孤独」に心を支配され、苦しくても苦しいと言えず、追い詰められていきます。これが一つ、口が利けなくなることではないでしょうか。そして、このように誘い込んでいるのが悪霊の働きです。人間を孤独に導き、その希望を奪い取っていく。これが、口を利けなくする悪霊の働きであり、それは命を奪い取る働きなのです。イエス様はここから癒してくださった。つまり、「あなたは一人ではない」「苦しい、助けてくださいと言って大丈夫だ」「必ず神様が助けてくださる」と教えているのです。
3: 悪霊の働き 何を正しいとするのか
この時、イエス様は、口を利けなくする悪霊から人々を癒していたのです。しかし、今度は、そのイエス様ご自身に、その悪霊の働きが襲い掛かってきたのです。それは「正しいことをすることに対する非難です」。そして、何が正しく、何が正しくないのかを歪めてしまう働きです。確かに、この世において、何が正しく、何が正しくないことなのかは、考え続けていなければなりません。そうでなければ、自分自身は必ず正しいという歪んだ思いに陥ってしまいます。それもまた大きな問題となります。そのうえで、今日の箇所において、癒しをなされたイエス様は、「あの者は悪霊の頭で、悪霊の力で悪霊を追い出しているのだ」と言われました。この言葉は正しいのでしょうか。少なくとも、ただただ、目の前で苦しむ人を見捨てるのではなく、助けることを、私は悪霊によるものだとは思いません。ここでは、それが「悪霊によるものだ」と言われたのです。隣人を愛し、人と共に生きて、苦しみを分かち合うこと・・・それが悪霊の働きだとされたのです。この世の社会では、それがたとえ人を助け、人を救い出す行為だとしても、自分にとって不都合であったり、その者自体の存在が、不愉快、不必要、敵対者であると思うときに、その行為を、良いこととして認めないのです。そしてそれはただ、認めないだけではなく、その助け合う行為自体を否定し、非難していくのです。これは皆さんも思い当たることがあるのではないでしょうか。簡単に言うならば、嫌いな人が良いことをしていても、認められない。嫌いな人と一緒に喜ぶことができない。本来、喜ぶことが起こったとしても、それを一緒に喜ぶことができないことがあると思うのです。
以前、私がまだまだ小さかった頃・・・「なぜ戦争は悪いこと、してはいけないこと、誰もしたくないことなのに起こるのだろう」と聞いたところ、「戦争をしたい人もいるのだよ」と言われ、とても驚きました。「戦争をすることを商売とし、戦争をすることによって儲けようとしている人、人気を集めようとしている人、それで自分が偉いとする人々がいるのだよ」と教えられ、確かにその通りだと思い、自分の認識の甘さを教えられました。戦争をすること。人を傷つけること。それはしてはいけない。・・・はずです。幼稚園では子どもたちにそのように教えるはずです。「人を傷つけてでもおもちゃを取り合いなさい」とは教えません。小学校でも、テレビでも、そのように教えているはずです。だから、全ての人がそのように思っていると思っていた。しかし、現実は違ったのです。人を傷つけても、自分がよければそれでよい。それがこの世の現実なのです。
今日の箇所で、イエス様は、まさにこの自分勝手な人間の社会に非難されたのです。イエス様の敵対者は、自分の立場や、自分の主張が変えられてしまうことを恐れ・・・癒し、悪霊を追い出すという行為を、悪霊の頭の業としたのです。これがこの世、人間の社会です。わたしたちは、時に社会の圧力、人間関係による不安から、必要だと思ったこと、正しいと思うことを声にして語ることができない時があります。それこそSNSというものが発達したこの世の中では、たった一言だけでも間違えれば、大きな問題とされ、誰かもわからない人から激しく非難されます。イエス様が「悪霊の頭」と言われたように・・・何をしたとしても、それが正しいことであったとしても、その行為が、自分にとって不都合な者たちにとっては、それは正しくないことであり、むしろ自分にとっての正しさを保つために、みんなが非難をするようにしていくのです。そして、愛の行為は悪魔の行為とされる。神様の御業が、悪霊の頭の業とされていくのです。共に生きること、人を支えること、痛みを共に担い、共に愛し合い生きること。ここではそのようなことは「悪霊の頭」によるもので「正しくない」とされたのです。これがイエス様に向けられた悪霊の力ということができるでしょう。
4: 神の国を選び取る
このような非難、圧力に対して、イエス様は【11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。】(ルカ11:20)と言われたのです。イエス様は、神の指で、悪霊を追い出し、ここに神の国を送ってくださった。それはイエス様ご自身が、私たち人間の弱さを共に担って生きる道です。イエス様は「わたしはあなたを愛している」ということを、自らの命をかけて、私たちの痛みを共に背負い、生きてくださった。これがイエス様の教える、神様の癒しの業であり、神様の恵みなのです。イエス様は、悪霊の力で、人々から悪霊を追い出したのではなく、神様の霊によって、その導きによって、悪霊を追い出されたのです。それでも、人々は、自分の都合ばかりを見て、イエス様を受け入れることができず、その行為を悪霊によるものだとしました。このイエス様の行為を、私たちは、どのように受け取ることができるのでしょうか。ここでは、そのことが問われているのです。私たちは、何を神の行為とし、何を神の国とし、何を悪魔の行為とし、どのようになることが悪霊の国となることとするのでしょうか。
神の国。それは神様の愛の恵みによる支配のことです。この神様の支配というものは、悪霊の力によって、縛られ、悪霊によって支配されていた者が、解放され、神様の愛の支配の内に入れられていくことを、意味しているのです。それは、この社会にあって、孤独を感じ、苦しみ、痛み、悲しむ者に、神様が共にいてくださり、そして、守って、支えてくださること、それが神様の愛の支配です。私たちと共にいて、平安を与えてくださる、その導きが、まさに神様の支配であり、それが神の国なのです。私たちは、この神の国、その神の支配にすでに入れられているのです。ただ、それを、私たちが、「これは悪霊によるものだ」とすれば、その恵みを受け取ることはできません。私たちは、神様の導き、神様の支配を求めているでしょうか。皆さんは、皆さんの心の中心にイエス様が来ることを喜ぶことができるでしょうか。それとも、自分の欲望を求め、自分のために生きることを喜ぶのでしょうか。
私たちの人生は選び取りの人生です。日々、選び取りの連続で、そこには自分なりの正しさがあり、その道を選んでいるのです。時には嘘をつくことも正しいとすることもあるでしょう。誰かを傷つけることは正しいでしょうか。自分が傷つかないために、誰かを傷つけ、差別し生きることは正しいのでしょうか。私たちは、自分の正しさを完全な正しさとしないことが必要です。
私自身のことで言えば、私は感情によって揺さぶられ、間違いだらけの人生です。正しい道を選び取ることができているとは到底言うことはできません。ただ、だからイエス・キリストが必要だと信じて生きています。私は、自分を見て、自分がイエス・キリストを十字架につけた者として、悔い改めることが赦されている。そして、どれほど間違いだらけでも、その自分を神様は愛してくださっている。その愛に触れて、生かされている。そして、だからこそ、この愛を知った者として生きる道を選び取ろうと、もう一度新しい命をもって生きていくのです。この繰り返しが、私の人生です。
イエス・キリストは、この世にきてくださり、私たちと共に歩む道を選び取られました。孤独にある者の隣に来て下さり、生きる勇気と希望を与えてくださっているのです。ここに神の国が来ているのです。是非、皆さんも、どの様に生きていくべきなのか、何が正しいことなのか、考え続けて欲しいと思います。そのうえで、何が、神の国、神の行為なのかを考え、そして最後はイエス・キリストに委ねて、赦された者として、選び取っていきたいと思います。(笠井元)