1: 危険を顧みず行われたイエスの癒し
イエス様は口を利けなくする悪霊を追い出しました。群衆はイエス様の癒しに対して「この人は、悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだ」としたのです。イエス様は、ご自身が癒しを行えば人々が非難をしてくることはわかっていました。それでもイエス様はご自身の危険を顧みることなく、孤独で悲しみ、社会で差別され、生きる希望を失っている者のところまできてくださり、癒しを与えてくださったのです。
2: 口を利けなくなること
ここで悪霊の働きは「口を利けなくする」という働きとして限定されています。イエス様は、自分は言葉を発すること自体が許されていないと思っている者の隣に来てくださり、その存在を認め、声を発することが許されていることを教えてくださったのです。人間の人生には様々な問題が起こります。ただ、「自分は今、辛い状態なんだ。どうすればよいのだろうか。助けてほしい。」と声をあげることができれば、その苦しみは半減します。声をあげることができない時、私たちは孤独に心を支配されているのです。人間を孤独に導き、その希望を奪い取っていくのが、口を利けなくする悪霊の働きであり、それは命を奪い取る働きなのです。
3: 悪霊の働き 何を正しいとするのか
イエス様ご自身に悪霊の働きが襲い掛かってきました。正しいことをすることに対する非難です。癒しをなされたイエス様は「あの者は悪霊の頭で、悪霊の力で悪霊を追い出しているのだ」と言われました。この言葉は正しいのでしょうか。隣人を愛し、人と共に生きて、苦しみを分かち合うこと・・・それが悪霊の働きだとされたのです。人を傷つけても、自分がよければそれでよい。それがこの世の現実なのです。イエス様の敵対者は、自分の立場や、自分の主張が変えられてしまうことを恐れ・・・癒し、悪霊を追い出すという行為を、悪霊の頭の業としたのです。
4: 神の国を選び取る
イエス様は、神の指で悪霊を追い出し、神の国を送ってくださったのです。私たちは、何を神の行為とし、何を神の国とし、何を悪魔の行為とし、どのようになることが悪霊の国となることとするのでしょうか。私たちの人生は選び取りの人生です。イエス・キリストは、この世にきてくださり、私たちと共に歩む道を選び取られました。ここに神の国が来ているのです。私たちは何が、神の国、神の行為なのかを考え、イエス・キリストに委ねて選びとっていきたましょう。(笠井元)