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2024.9.25 「神様の言葉に従い歩み続ける」 ヘブライ人への手紙11:8-16

1:  神の言葉に従い出ていく

今日の箇所ではアブラハムの信仰について語られます。アブラハムは、創世記11章の末から登場し、イスラエルの「信仰の父」と呼ばれるほどの人物です。神様はアブラハムに【「生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」】(創世記12:1)と言われました。そして、【アブラムは、主の言葉に従って旅立った。】(創世記12:4)とあるように、アブラハムはこの神様の言葉に従い、旅立ったのです。(ヘブライ11:8

アブラハムは、もともとは父テラとウル(現在のイラク)に住んでいました。そこから父テラに連れられてカナン地方に向かって出発したのです。ハラン(現在のトルコ)についたところで父テラが召されました。ハランは商業、文化、政治の中心都市でとても栄えていた都市とされています。そのため、ハランに留まり続ける方が安心できたかもしれません。

しかし、アブラハムは神様の言葉を受けて、これから何が起こるかもまったくわからない道を歩き始めたのです。アブラハムは今の安全、安心よりも、神様の言葉を選びました。

私たちは、この世の財産、権力、名声を求めます。また何の心配もなく、安心して生きることを求めます。そのためには、どれだけの財産を持てば安心なのでしょうか。神様の召しに従い、アブラハムが歩き出したということは、この世の何かを土台として安心を得ていくことから、神様の言葉を土台として歩みだした大きな一歩なのです。

 

2:  約束の地で、幕屋に住んだ

アブラハムは信仰を持って歩き出しました。そしてアブラハムは「約束の地に住んだ」のです。ただその形は「他国に宿るように」つまり「寄留者として」「幕屋に住んだ」のです。(ヘブライ11:9,13)と言うのです。アブラハム、またイサク、ヤコブはこの世にあっては、約束の地に住んだとしても、この地上ではよそ者であったのです。アブラハムの求める安住の地は10節にあるように、神様が設計者であり、建設者である土台を持つ場所です。

アブラハムは約束されたものを手に入れることはできませんでした。しかし、その道をアブラハムは喜んだのです。それは、神様の言葉を土台として生きる者であったからです。そしていずれこられる神の国を見ていたからです。

このとき、ヘブライ書を読んだ人々も、大変苦しい状況にあったとされています。大きな試練の時、人生の危機、信仰の危機にあったのです。その中で、人々が求めたのは、この世での平安でした。そして、その思いが強くなればなるほど、人々は教会から離れていったのです。教会には、この世での平安、成功は見ることはできなかったのです。そして人々は教会から離れていったのです。これは今の私たちの教会も変わらないかもしれません。私たちは、いずれくる神の国を見つつ、この世の旅人として、仮住まいに生きる時、喜びを得るのです。

3:  まだ見ぬことを信じた

11節の文章には問題があります。サラが「子をもうける力を得た」とありますが、この言葉の意味は「男性が精子を産み付ける」ことを意味しており、サラにはありえない言葉となっています。また根本的なことでいえば、「子をもうける力」が神の祝福であるとすること自体にも問題があります。また12節「死んだも同様の一人の人」とありますが、年老いて子をもうける力を失った者を「死んだも同様の人」とすることも問題です。聖書には、多くの問題のある言葉があり、その言葉が多くの人々を傷つけてしまうことがあることも覚えておく必要があります。

ここで読み取りたいことは、サラとアブラハムは「まだ見ぬことを信じた」ということ、神様は人間の常識を越えて働かれるということです。神様はアブラハムに「あなたの子孫を大地の砂粒のように、星の数のようにする」(創世記13:14-16,15:5-6)と言われました。このことをアブラハムは信じたのです。

これから先、どのようになるかは、私たち人間には誰にもわかりません。私たちが望まないことが起こるかもしれませんが、神様は、私たちを愛し、私たちが喜んで生きるために最善の業を、行って下さいます。このことを信じることが信仰です。

 

4:  信仰の揺らぎ

アブラハムは天の故郷を熱望した。いずれ来る神の国を見ていたのです。15節では、出てきた土地のことを思う、人間の心の揺らぎを持つ者について語ります。

アブラハムもいつも神の御業を見ていたわけではありません。アブラハムはハガルとの間にイシュマエルをもうけました。サラを妻ではなく妹と言いました。サラは神様の使いの言葉に対して「笑った」のです。その中で、「出てきた土地に戻るのに良い機会もあったかもしれません」。神様を土台として生きることを止めて、この世の価値観をもって生きていくこともできたのです。それでも、アブラハムも、サラも、出てきた土地に戻ることはなかったのです。信仰を捨ててこの世に土台を置いて、この世のものを中心において生きるということはしませんでした。

神様は、このような者を恥とはせず、そのような心に信仰の揺らぎを持つ者を受け入れ、そのような者を召し、そのために神様の都、つまり神の国を準備されているのです。

 

ヘブライ書を読む者たちは、教会にいる意味を見失い、イエスを主と告白することに疲れた者たちだったとされます。そのような者に、この心の揺らぎを持つことは、アブラハムでもあったことであり、しかし、そこから信仰を捨てるのではなく、そこからもう一度神様に目を向けることを勧めているのです。私たちも神様を完全に信じるということはできないでしょう。神様から離れていくこともあるでしょう。ただ、それでも一歩、今までの生き方を変えて生きる。その一歩を歩み続ける者とされていきたいと思います。(笠井元)