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2024.9.29 「神様の求めている生き方」(全文) ミカ書6:6-8

1:  召天者記念礼拝

今日は召天者記念礼拝となります。神様は、御心のうちに、私たち一人一人を創造し、そしていつの日か、その命を御許に召されます。それが神様の御業です。神様は愛をもって人間を造られました。そしてその愛の御業をもって、人間を御許に召されるのでしょう。私自身、今年は、「命」と「死」について考えさせられることが多くありました。「死」は一言で言いますと、先ほども言いましたが、神様の愛の御許に召される時となります。私たち人間は、神様に造られ、そして神様の御許へと帰っていくのです。「死」はどれほど偉大な人物であろうとも、すべての人間に必ず訪れます。どれほどの財力、権力、能力をもってしても、死から逃れることはできません。またそれは、この世でどれほど、弱く、小さいとされていたとしてもです。死は、すべての人に平等に与えられます。そのような意味では、「死」は、とても日常的で、いつもどこかで起こっていることとされます。ほとんどの人間は、そのことを知っているでしょう。ただ、私たちは「死」については、日常的にはあまり考えようとはしないのです。それは「死」というものが、恐ろしく、悲しすぎるからでしょうか。最近は「終活」をすることが勧められ、「エンディングノート」といったものを使い、葬儀の方法、財産の振り分けなどを考えることも勧められています。ただ、これは自分の「死」と向き合うというよりも、残された家族を想い、そのために行うこととなります。私たちにとって「死」は日常的なものではないでしょう。私たちは、親しい人の死を喜ぶことはなかなかできません。死は私たちには、耐えがたい、悲しみと苦しみをもたらします。そのような意味では「死」はあって欲しくはないこと、受け入れがたい現実なのです。

キリスト教は、イエス・キリストがこの「死」に勝利されたことから、すべてが始まったのです。イエス・キリストは、この死を越えて、私たちと共にいてくださる方となられたのです。それは、日々、どれほどの絶望、困難に直面したとしても、キリストは、その絶望を越えて、私たちと共にいて下さる方となられたということです。神様の愛は、この「死」にさえも、飲み込まれることはない。神様の愛は、どこまでも、それこそすべての人に与えられている。そして、それは永遠に絶えることはないのです。そのように考えますと、「死」は悲しいことでもありますが、そのとき、私たちの隣には、イエス・キリストがいて下さる。つまり、「死」は、すべての人に与えられていると、同時に、「死」を越えて、神様の愛が、すべての人に与えられているのです。ここに神様の愛の出来事があるのです。

 今日は召天者記念礼拝となります。ここには召された方々の写真が置かれていますが、この写真を見て、皆さんはどのようなことを思い起こされるでしょうか。この時に、私たちは「あの人は、あのような方だったな~」とか「あんなことがあったな~」と思い起こすことができるでしょう。 今日は、その中でも、この召された方々、信仰の先達の方々を愛し、導いてくださった、神様へと目を向けていきたいと思うのです。神様は、この召された方々をどのように思われているのか。この世に命を与えられる前から、そして、この地上に生きている時、そして今、神様の御許においてある時。この神様の思いに、私たちは耳を傾けていきたいと思います。そして、私たち自身がどのように生きるべきなのか、今一度考える時としていきたいと思います。

 

2:  何をもって主の前に出るのか

今日の箇所6節、7節ではこのようにあります。【何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。】(ミカ6:6-7

 ここでは、何をもって神様の御前に出るべきかが問われています。ここでは「当歳の子牛だろうか」、それとも「幾千の雄羊だろうか」、それとも「幾万の油の流れだろうか」と問いかけ、最後には、「長子」、「胎の実」、つまり「わが子」だろうかと問いかけているのです。実際にイスラエルの王、アハズ王はあまりの不安からわが子を神に捧げたと言われています。これは異教の習慣であり、キリスト教ではイエス・キリストによって、あらゆる犠牲が、もはや必要のないものとされたのです。しかし、人間は不安、絶望の中では、わが子を犠牲にしてまでも、自分の力でどうにかしようとしてしまうのです。この6節、7節では、この問いかけはなされていますが、その答えは記されてはいません。ただここで言いたいことは、神様は「何かを持ってくること、何か献げものを求めてはいない」ということです。神様が求めているものは私たちが持っている何かではなく、「わたし」自身であり、「あなた」自身であります。私たちは、何かを持っていなければ、神様の前に出ることができないのではないのです。何も持たなくてよい。私たちが持つべき献げものは、すでに神様が用意してくださった。イエス・キリストのみです。この神様が私たちを愛してくださっている。そして、このイエス・キリストによって愛を注がれている、私たち自身、「わたし」であり「あなた」を求めておられると教えるのです。

 

 

3:  神様の求められている道

 続けて、8節ではこのように教えます。【人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。】ここで、私たちがなすべきことは、もうすでに教えられているとします。そしてそれは「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」だとします。私たち人間の生き方は様々です。色々な仕事があり、趣味があり、色々なことを喜んで、また時には苦しいながらにも、様々な形で生きています。神様は、その私たちの存在を、「良し」としてくださるのです。その神様の愛が注がれている、私たちに、神様は「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」を期待されているのです。このことはすでに告げられているのです。そしてこのことは、実は、私たちもどこかで感じ取っているのではないかとも思うのです。 

 キリスト教では神様の愛、そして隣人を愛することを語ります。ただ、この日本にキリスト教を信じる者は1パーセントにも満たないのです。日本という国は、ほとんどの人が宗教を持たない、神様を信じないという国であり、そのような社会となっています。それでも、神様を信じないながらにも、根拠は何もありませんが、社会の道徳、倫理として、人に親切にすること、やさしくすること、弱い立場の人を大切にすることなどを教えます。大人は子どもに「一緒に生きることの大切さ」を教えるのです。このことに「なんで」と子どもが聞き続ける時、私たちは答えることができるでしょうか。なぜ、隣人を大切にしなければならないのか。人を傷つけてはいけないのか。なぜ・・・どうして・・・と考えれば考えるほど、その根拠がわからなくなるのです。神様という存在、その愛がなければ、隣の人を大切にする根拠はないのです。

だからこそでしょう。障がいを持つ者を傷つけ、殺害するといった悲しい事件も起こるのです。2016年には相模原で多くの障がい者が殺害されたという事件が起きました。その後も、その事件を起こした者は、「自分は間違っていない」「社会のためにしたのだ」と言っているのです。このような事件に対して、ニュースでは、この者の考え方は間違っているとしながらも、・・・なぜなのかといった時に、何と答えてよいのかわからなくなっていた方もおられました。ただ、神様を信じなくても、根拠は何もありませんが、社会の道徳、倫理として、人に親切にすること、やさしくすることを、必要だとするのです。それは、ある意味、人間の心のどこかには、「正義を行い、慈しみを愛する」ことが必要だと感じ取っているのではないかと思うのです。ただ、99パーセントの人が神様を認めず、神様の愛を認めず、受け入れないのです。なぜでしょうか。それは、神様という存在を知らないのではなく、拒否している、または恐れていると言ってもいいかもしれません。 

人間はあれこれと理屈を重ねて、神様を信じようとしないのです。それは、心の中に本音、「自分を中心に生きていきたい」「自分のためだけに生きていきたい」という思い、欲望があるからではないでしょうか。「お金、権力がすべてである。それを手に入れたい。自分の人生は自分のものだ。決して神様のものではない。」だから神様を信じて受け入れることはしない。神様が求めていること、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」が求められていることはわかっている。ただ、このことを信じて窮屈に生きることはしたくない。そのように思っているのではないでしょうか。そして、それは自分の命が自分のものと信じているからです。これが人間であり、人間の本音、人間の心の奥底にある、自己中心というものです。

 今日は、神様の御許に召された方々の生き方を思い起こす時となります。今、思い起こす時、召された皆さんの生き方はどのような道であったのでしょうか。それこそ、自分の命を自分のものとして、ある意味、人間らしく生きた時もあったでしょう。しかし、その中で、神様を見ていかれたのでしょう。信仰の先達の皆さんは神様と向き合う道を選び取ったのです。神様が求めていること。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神様と共に歩むこと」を知り、そしてその道を歩もうと決心をされ、生きていかれたのです。それが、「信仰」なのです。信仰は、神様がすでに私たちを愛し、私たちのために、イエス・キリストが与えられ、愛されている現実から、神様に従う道を選び取ることです。召された皆さんは、この信仰の道を選び取っていかれた方々なのです。もちろん、時に自分の心に敗けてしまうこともあったでしょう。むしろ、だからこそ、キリストを必要として、そしてキリストの愛を知り、何度も何度も神様の愛に触れて生きて、そして今、神様の御許に挙げられているのです。私たちは、自分自身に問いたいと思います。私はどのように生きていきたいのか。神様が求められていることに応えて生きていきたいか。それともあくまでも自分の欲と心の本音を一番にして生きていくのか。考えていきたいと思います。

 

4:  神と共に歩む

 私たちは、神様に造られた者であり、自分で自分を造り生まれた者ではありません。私たちは誰もがそのことを知っているでしょう。そして。だからこそ、命の尊さを知っているのです。そしてそれは、自分の命だけではなく、他者の命も、同様に大切なことなのです。この私たちの命が光で照らされるため、神を愛し、人を愛し、自分を愛し、生きることができるために、イエス・キリストを通して、神様はその愛を示してくださったのです。神様は、私たち人間と共に歩む道を選び取られました。神様は、私たち人間を愛してくださっているのです。召された方々は、今、この神様の愛の御許におられます。私たちもまた、今、この時に、この神様の愛を頂きたいと思います。神様の愛を持って、神様と共に、歩み出したいと思うのです。そして、神様の求められている道、神様の正義と慈しみを持って、神様の前にへりくだり、歩んでいきましょう。(笠井元)