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2024.10.6 「恵みを分かち合う」(全文) 申命記26:5-11

1:  収穫感謝礼拝

 今日は、収穫感謝礼拝となります。収穫感謝礼拝はこの教会では、以前は行っていたとも聞きましたが、私が就任したからは、今年が初めてとなります。今回、この収穫感謝礼拝を行うことになったのは、執事会の話し合いでも、色々と紆余曲折しながらのことでした。話し合いの始まりは、この収穫感謝とはまったく関係のない、11月の第三週に行っていた子ども祝福礼拝の対象となる、子どもがいなくなったところからでした。始まりが、子どもが少なくなっていき、ついに、いなくなってしまったということですから、嬉しいとは言えないところからの始まりです。ただ、それがこの収穫感謝礼拝へと繋がっていったという意味では、とても良い話し合いができていったとも思います。執事会では、子ども祝福礼拝がなくなるということから、最初は「神様に育てられているのは子どもだけではなく、大人も、何歳になっても変わらず育てられている」という意見があり、それぞれの成長を喜ぶ、成長感謝礼拝を持つことも考えられました。ただ、それだけであれば、自分たちが神様に恵みを頂いていることを、自分たちだけで喜んで終わってしまい、どんどんと内へ内へとなってしまうのではないか、・・・という意見があり、神様から恵みを頂き、その恵みを外に向けて発信する、分かち合うということを考えていきましょうと話し合いがされたのです。そして、それではどうしようか・・・という話し合いから、それであれば、今までは行っていなかった収穫感謝礼拝を行ったらどうだろうか・・・と話し合いが進み、今回、皆様にお願いしましたように、自分の頂いている恵みの一部を持ち寄り、そして、その恵みを教会だけではなく、もっと多くの人々と分かち合おうとなったのです。

皆さんが、多くの恵みを持ち寄ってくださったことに感謝したいと思います。予定では明日、フードバンク福岡に持って行き、そこから必要としている人々のところ、子ども食堂や生活困窮者、または、障がい者支援施設などに届けられることになっています。

 

この収穫感謝礼拝ですが、キリスト教では、収穫感謝礼拝が1600年ごろから行われてきました。少し、歴史の話となりますが、もともとはイギリスにいたピューリタン、清教徒たちがアメリカに渡っていったことから始まっていきます。

当時、イギリスではピューリタンにとっては自由に神様を信じることができない状態でした。そのため自分たちの信仰を守るために、アメリカへと渡ったのです。しかし、渡ってみると、そこには家も畑も、そして食べ物もまったくない状態で、半数以上の人々が飢え死にしていったそうです。人々は、食べ物のないことの苦しさを痛感したのです。そのような中、人々を救ってくれたのは、いわゆるネイティブアメリカンとされる、先住民の人々でした。ネイティブアメリカンの方々は、食べ物を分けくれただけではなく、食べ物の育て方を教えてくれたそうです。そしてネイティブアメリカンの方々によって、多くの収穫を得た1621年に、神様に感謝の礼拝をしたのが収穫感謝礼拝の始まりとされています。

 

 

2:  神様が与えられた地の実り

今日は、この収穫感謝礼拝を行うにあたり、申命記から学んでいきたいと思います。今日読んでいただいた箇所の5節からは、イスラエルがエジプトにおいて奴隷として、虐げられ、苦しめられたこと。そしてそのようなイスラエルの叫びを聞き、神様が助けてくださり、エジプトから導き出してくださったこと。そして乳と蜜の流れる土地を与えられたことを語っています。そして10節では、この地で実りを与えられたこと、そしてその初物を持ってきたことを語ります。実りは神様の救い、そのものでした。エジプトでは、奴隷としてまともに食べることも出来なかったはずです。そしてエジプトから脱出した後も、それから40年間も荒野を歩き続けたのです。その中では、時に、人々は神様に不平不満を言いました。そのような苦難を越えて、ついに着いた場所。その土地での実りを得たのです。まさに神様が導き出してくださり、与えて下さった救い。その救いが、この実りなのです。人々は、命の糧を頂いた。生きるための恵みを神様から頂いたのです。人々にとって、実りは救い、命そのものであり、その命としての実りを頂いたのです。

 私たちは、これほどの感動をもって食べ物を頂いているでしょうか。食べ物の一つ一つが神様からの恵みであり、自分の命を形成している救いなのだと、そこまで感謝して頂いているでしょうか。 現在の日本は物価が高騰する中で、まともに食事をすることも難しくなっている人がどんどんと増えています。ただ、それでいながらも、食べ残しや、期限切れなどで捨てている食べ物、食品ロスとして、何百万トンもの食べ物が捨てられているのです。世界で見れば25億トンもの食べ物が捨てられ、20億人分の食べ物が捨てられているとされます。そして、その一方では、8億人以上の人が飢餓状態、30億人以上の人が健康的な食事がとれていないとされ、おおざっぱですが、世界の人口で考えると2人に1人はまともに食事がとれていないとされるのです。これが、今の世の中の現状です。このことを私たちは覚えておかなければならないでしょう。

 私たちは、食べ物を得るということを、どれほど感謝して頂いているでしょうか。私たちは、自分で働き、お金を得て、そして食べ物を買うわけですから、流れとしては、自分の力で食べ物を得たと思うものでしょう。しかし、どれほどお金があろうとも、お金を食べるわけではありません。そこに食べ物がなければ、買うことはできないのです。それこそ今年は暑い夏で、お米が凶作となり、買うことができなくなった時もありました。それだけではありません。物価が高騰していますが、食べ物を買うこと自体が難しくなってきた時代となります。

私たちは、自分の力だけでは、食べ物を得ることはできないのです。今年は、1月1日から能登半島では大きな地震があり、先日は大雨による災害が拡がっています。地震からの復旧には時間がかかり、3ヶ月もまともに水を得ることが出来ずに大変な思いをしたと聞いています。その上での大雨による災害です。私の友人は石川県に住んでいますが、「なんで能登ばかり・・・」と言っていました。それこそ、どれほど、人間が食べ物を育てようとも、蓄えようとも、この世の災害によって、一瞬で失われてしまうということもあるのです。動物や植物の命は、神様が毎日造り、養って下さっている中で与えられているものなのです。動物も、命を与えられ、生きている。それは植物も変わりありません。そしてその命を造られているのが神様なのです。私たちは、自分の力だけで生きているのではないのです。自分で、食べ物となる動植物の命を造り出しているのではないのです。神様の造られた命、神様が養われている命を、食べ物として頂いている。この恵み、神様の命の業によって、生きていることをしっかりと覚えたいと思います。そして、この神様の与えて下さっている実りによって、私たちは生かされていることを、神様に感謝したい。生かされていること、命を与えられていること、養われていることを、感謝していきたいと思うのです。

3:  初物を献げる

 今日の箇所では、この感謝の心を表す行為として、実りの「初物を献げる」ということを教えています。神様に献げるものは、頂いている恵みの中の余りものを献げるのではなく、一番最初に収穫したものを、まず神様に献げるのです。これは献金の姿勢にも通じるのですが、献金は、収入を得た時に、自分の生活費を確保し、そこから余りもの・・・お金に余りものはないと思いますが・・・を、献金するのではないのです。感謝をもって生きること。命をいただいていることをきちんと受け止めるためには。まず神様に献げるものを取り、差しだしたいと思うのです。これは何よりも、恵みに対する応答の姿勢、感謝の心が問われているのです。そして、この感謝の心が整えられる時、もう一つには、富みという誘惑から解放されることを意味しています。

 イエス様は、【あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。】(マタイ6:21)【あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。】(マタイ6:24)と言われました。

 まず神様に感謝をし、生きること。それは、神様に心の中心に来ていただくことであり、富を主人にして、富に仕えることから解放されるのです。私たちは何のために働き、何のために生きているのか。富のためか。富を独り占めするためなのか。私たちが生きているのは、神様に頂いた命を生きるため。神様の恵みを頂いて生かされているからです。だからこそ、神様に委ねて生きる。感謝して生きるのです。これが私たちの生きる意味なのです。

 

4:  共に喜ぶ

 最後に、共に喜ぶということを学びたいと思います。11節ではこのように言われます。【あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい。】(申命記26:11ここでは、エジプトで奴隷、寄留者とされていたイスラエルに、「今、実りを得たあなた方は、その恵みをレビ人、そして寄留者と共に喜び祝いなさい」と教えるのです。そしてこのあと12節を読むと、それだけではなく、「孤児」「寡婦」も加えられ、そのように立場の弱い人々と共に、恵みを喜ぶことを教えているのです。

 アンパンマンの作者の、やなせたかしさんは、このように言いました。「困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。」私はこの正義という言葉は簡単に使いたくはありませんので、「絶対的な正義」という言葉には抵抗があります。それこそ、今、世界中で起きている、戦争、紛争も、それぞれの正義を振りかざして起きていると言ってもよいと思います。ロシアにはロシアの正義、ウクライナにはウクライナの正義、イスラエルにはイスラエルの正義、ハマスにはハマスの正義があるのです。そしてそれぞれが自分たちは正しいとして戦争を行い、多くの人々が苦しんでいるのです。それぞれの振りかざす正義が、人を傷つけ、命を奪っている。それが人間の掲げる正義の生み出しているものなのです。私たちは「自分が絶対正しい」と思うとき、気をつけなければなりません。人間が100%正しいことはありません。人間の行うことに、絶対的な正義はないのです。

ここまで人間の正義を否定してからだと、だいぶ矛盾しているようにも聞こえますが、ただ、その中でも、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、恵みを分かち合う行為として、大切な行為だと思うのです。自分の持っているものを独り占めするのではなく、自分自身が痛みを伴いながらも、隣の人のことを想い、差し出していくこと。この行為には、意味がある、一つの正しさがあるのではないかと思うのです。それこそ、神様が人間になされたことは、まさに自分自身が痛みを伴う行為として、この世にイエス・キリストを送り、十字架の上で死なれたということなのです。自分自身が痛み、苦しみ、嘆きながらも、徹底的に人間を愛した。この神様の愛の行為は、完全なる愛の行為であり、それは完全なる正義、正しさなのです。私たちが、この神様の愛を受けて、このイエス・キリストに従い歩む道・・・自分自身が痛みを伴いながらも、隣人を愛する行為。その一つとして、食べ物を分かち合うこと。飢えている人に食べ物を差し出すことは、この神様の愛を表す一つの行為となるのです。そこに、神様の正しさ、愛を私たちは頂くのでしょう。それは、人間が正しい行為をしたのではなく、神様の正しさがそこに表されたという方が良いと思います。

今日のコラムにはマザー・テレサの一日一章からの文章を載せています。マザー・テレサは、自分自身がどれほど飢えていようとも、その人が、隣の人の苦しみを知っていたことに驚いたのでした。私たちは、隣の人が、何を求め、どのような痛みを持っているのか、知っているでしょうか。私たちが恵みを分かち合うためには、まず、隣人を知ることから始まるのです。隣の人のことを知り、その痛みを分かち合うこと。自分自身が痛みを伴ってもです。そのように歩き出す者とされたいと思います。

今日、皆さんがここに持ってきてくださったのは、まさにその一歩だと思います。私たちは、神様に与えられている恵みに感謝しつつ、共に分かち合い、生きていきたいと思います。(笠井元)