1: 死を越えた力を信じる アブラハム
「信仰によって」と、それぞれ人物を挙げて、その人物が信仰によって様々な歩みをしたことを語ります。ここから著者は信仰を見失っている読者たちを力づけようとしたのです。
まず試練を受けたアブラハムについて語ります。アブラハムは、愛する息子イサクを献げるように命じられたのです。アブラハムがイサクを神様に献げようとした時に、神様が話しかけてくださり「アブラハムが神様を畏れる者であることが分かった」とし、イサクの代わりに雄羊を与えたのです。
ヘブライ書では、創世記に記されているアブラハムの記事から、【アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。】(ヘブライ11:19)というのです。
アブラハムは試練の中において、神が死者の中から生き返らせることが出来ると信じたのです。この記事は迫害の中にあって死に恐怖する読者に対して、神様は死を越える方であることを教えているのです。人間は死を恐れます。また愛する者の死は絶望を与えられます。死は試練であり、絶望です。しかし、アブラハムは「信仰によって」その試練を越えて「新しい命」を頂いたのです。私たちは命の神を人生の土台とした時、新しい命を頂くのです。
2: 将来を見る イサク
イサク、ヤコブ、ヨセフの、それぞれの中にある言葉に注目したいと思います。イサクは「将来のことについて」、ヤコブは「神を礼拝した」こと、ヨセフは「イスラエルの子らの脱出と、遺骨についての指示」についてです。
イサクの祝福の祈りは【将来のことについて】(ヘブライ11:20)です。イサクの祝福の祈りはヤコブとエサウのための祈りとなっています。創世記では双子の弟ヤコブが兄エサウを出し抜き、長子の権利も、イサクからの祝福も奪っていったのです。(創世記25章、27章)ヘブライ書においては、エサウが入っています。
ここでは祝福は「将来のこと」だったとします。 アブラハムは、神様からのいずれ与えられる祝福を信じて旅に出ていったのです。アブラハムの信仰も神様の導きとしての将来を見ていたと言えます。イサクはこの信仰を受け取っていたのです。将来、未来を見る信仰です。私たちも、「将来のこと」を考える時に、このような目線を持ちたいと思います。
3: 祝福に応答する礼拝 ヤコブ
ヤコブは「神を礼拝した」とされます。「杖」という言葉は、70人訳聖書の「床」という言葉から取ってきた言葉とされます。(創世記47:31)ここでは、「神への礼拝」としての祝福の祈りを見ることができるのです。ヤコブの礼拝というと創世記28章10節からの箇所を思い起こします。ヤコブはここで天と地を行き来するみ使いを見たのです。ヤコブはこのように言いました。【「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」】(創世記28:20-22)
エサウはヤコブを憎み、殺そうと思っていました。そこからなんとか逃げ出したヤコブです。そのヤコブに神様は、「わたしはあなたと共にいる。あなたを必ずこの土地に連れ帰る。あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われました。この神様の祝福に応答するように、ヤコブは誓願を立て、礼拝したのです。祝福に応答するヤコブの礼拝です。
ヘブライ書10:25では【ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。】(ヘブライ10:25)とありました。当時は、集会を怠った者たちがいたのでしょう。それには外部からの迫害、圧力があったのかもしれません。そのような者たちに、著者は、そのようになるのではなく集まり、励まし合うことを勧めています。
私たちは礼拝のために集められています。そこで祝福を頂くのです。アブラハムは、祝福を受け、「死を越えた復活」「新しい命」を頂いたのです。私たちは礼拝の中で、もっとはっきりとした祝福、イエス・キリストの復活による恵みを頂くのです。
4: 権力からの解放 ヨセフ
ヨセフは信仰によって「イスラエルの子らの脱出と、遺骨についての指示」をしたのです。(創世記50:24-25)「イスラエルの子らの脱出」は、出エジプトの事を指します。イサクの時に見たように、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフまで「将来を見る」信仰が受け継がれているのです。
そのうえで、もう一つ見ることができるのは、エジプトという権力からの脱出です。ヨセフは壮絶な人生でしたが、最終的にはファラオの次の権威を持つ者となったのです。しかし、ヨセフが死を迎える時に引き継いだのは、エジプトにおける権威の継承ではなく、神様の約束でした。これがヨセフの信仰です。信仰は、権力を否定するのではなく、権力からの解放を与えて下さいます。権力に囚われ、財産に囚われている者に、解放を与えてくださるのです。ヨセフは強大な権力を持ちながら、それ以上に大切な神様の祝福を信じたのです。(笠井元)